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ペーター・フェンディ(1796-1842)

■ウィーンの都の痴れ者たち■ ―田中雅志


 女帝マリア・テレジアは、風俗史に名高い風紀委員会、俗称「貞操委員会」なるものの発足を命じたが、それは帝都ウィーンのあまりの風俗紊乱を憂えてのお触れであった。しかし、享楽的なウィーン子にとっては、いささか無粋にすぎるお達しであった。確かに、とりわけ不倫はこの都の専売特許であった。当時ここを訪れた、とある淑女が感慨深げに伝えるところによると、当地の婦人は艶事が露見したがために悪評を蒙ることは決してなく、それどころかかえって名声を博し、そのうえ自分の夫の階級ではなく不倫相手である愛人の階級で評価されたという。売春は盛行し、私生児は増大、そして性的な軽率さや享楽は、しばしば容易に犯罪と結びついた。性病がまたぞろヨーロッパで大流行の兆しを見せ、ウィーン大学では学生数が激減したため、しばらくの間講義の中止を余儀なくされる有様だった。そこで女帝は同委員会を設け、結婚相手や夫婦以外の不純な異性交遊に耽る男女を市民に密告させるなどして告発し、厳しく処罰するようにしたのだ。この時代ウィーンを訪れた世紀の放蕩児カザノヴァは、『回想録』に次のごとく誌している。


 ウィンではすべてが美しく、金も町にあふれ、極めて華やかだった。しかし、ヴィーナスに身を捧げる者にとっては、大変に窮屈なところだった。風紀委員と呼ばれる極悪きわまる密偵の一団は、あらゆる美しい娘たちの無慈悲な死刑執行人だった。あらゆる美徳をそなえた女帝も、男女間の道ならぬ恋のこととなると寛容の美徳を示されなかった。この偉大なる女帝は非常に宗教心が厚く、概して大罪を憎まれ、神の前に己が功徳を見せることを望まれた。それで、大罪を迫害しようと考えられたのだった。こんなわけでかの女は、いわゆる大罪の帳簿を御手に持たれて、七つの大罪を数えあげられた。かの女はその中の六つについては手加減も加えられると思ったが、淫蕩の罪ばかりは許すべからざるものと見なし、この罪の打倒のために、全情熱をそそぎ込み、爆発させたのだった……偉大なるマリア・テレジアの唯一の欠点からほとばしり出たこの残酷な金言のなかから、風紀委員の死刑執行人どもが犯したあらゆる不正と汚職とが発生したのである。かれらはウィンの街角で、ひとり歩きする娘たちを絶えず捕えて監獄に送ったのである。(1)

 

 しかし、「貞操委員会」によりウィーンの男女が模範的になったかというと、なかなかそうはいかなかった。そこは享楽の都ウィーンのことである。この様な無粋な委員会は実際上ほとんど成果を上げることができなかったようだ。その機能、組織について詳細な記録がないのでそもそもこの委員会自体の存在を疑う史家もいるくらいだ。しかしカザノヴァの記述とともに、一七五三年五月十九日付でこの地のヴェネチア大使が本国に送った公文書に同委員会のくだりが見てとれることから、実効性はともかくとして、それが存在していたことは確かであろう。

 道徳心堅固なる女帝はまた、有害図書を取り締まる「検閲委員会」を設ける。それにより、検閲に引っかかった有害図書は、一部削除のうえ認可されるか、あるいは禁書目録に記載されて焼却処分の憂き目に遭うかされた。しかし不思議なことに、お国柄であろうか、処分されたはずの禁書はどういう闇ルートをたどってか、したたかな書籍商へ、貴族や好事家たちの手へと渡った。はては、委員会の禁書目録に載っているということで、その書物に箔がつき、人気が出るといった始末である。こういったマリア・テレジアの風紀取り締りにもかかわらず、この地の性愛文化はより一層成熟の度を加えた。人々は市内のカフェ、劇場、酒場、娼婦で、ドナウ河畔の遊歩道、プラ―ターの亭(あずまや)、ウィーンの森であいもかわらず享楽に耽った。かつて卑猥で恥知らずなダンスとして断罪されたワルツが、熱病のごとく広まったのもこの頃だ。やがて世紀は転換する。同地の宮廷文化・貴族文化は爛熟期を迎え、いまやウィーン・ロココはとてつもなく甘美なる芳香を漂わす。その芳香は例えば、ペーター・フェンディのしたためた愛の交歓図のしっとりと甘い蜜の香りであった。

 ペーター・フェンディは一七九六年ウィーンに生まれる。祖父は領主の御者、父親は学校教師であり、四人兄弟の末っ子であった。幼児期にテーブルから落下するという不幸な事故のために脊椎が湾曲し、発育不全となり、生涯を通じ病弱であった。ペーターの画才を認めた父親の勧めで同地の美術学校でみっちりと修練を積む。一八二一年ヴェネチアへ赴き、ヴェネチア派に倣った絵画によりオーストリア皇帝フランツ一世よりゴールド・メダルを授与される。さらにその後、優れた絵画コレクションの所有者として知られるランベルク伯の推薦を受け、遂にハプスブルク朝の宮廷画家に任命される。栄えある宮廷画家として、フェンディはフランツ一世と皇室一族、宮廷貴族らの肖像画を主として描いた。一八三四年に描いた皇帝の家族の肖像は、彼の代表作に一つである。肖像画以外にも、ドイツの歴史、文学に材を取った多くの作品を残している。その風俗画はフェルディナント・ヴァルトミュラー(一七九三-一八六五)らビーダーマイヤー様式の画家たちに深い影響を与えた。一八四二年、長患いの末に心臓病により死去。

 一九一〇年、艶本出版で名高いウィーンの   C・W・シュテルン書店より(実際の本では出版社名は挙げず、出版地はライプチヒになっている)、この勤勉実直と思われた宮廷画家のイメージを著しく損なう画集が六百部限定で私家出版された。『ペーター・フェンディ、四十葉の好色水彩画』がそれである。ファクシミリ復刻版で、ヨーゼフ・ダンハウザーによるフェンディの肖像画一葉とカール・メルカーの序文がある。この一連の好色水彩画は、フェンディの生前には公表されることはなく、死後しばらくして知られるようになり、そしてさる高名なオーストリア人美術収集家により秘蔵されていた。しかしその後、すべて消失してしまったと思われていたものだった。この原画の消失に関し、ロー・デュカは次のごとく述べている。


 この種の絵画消失劇は、過去にしばしば繰り返されてきたことだ。フェンディの水彩画コレクションは、ある美術愛好家が自分だけの極秘アルバムをたくわえた美術ハーレムの一部を成していた。しかしながら、たとえ所有者が享楽家であって、その享楽ぶりが顕著であろうとなかろうと、やがては死に見舞われるのだ。その者は、死の女神が近づくと分かると、自分の秘めやかな書斎を“整頓”したのだ。審美眼に劣る後継ぎの目から見れば、彼等達の宮廷のイメージを汚すよう映じるであろう作品を概ね処分することによって。それらの作品は、ひもがけした手紙の束と一緒にされ、炎に投ぜられたのだ。(2)

 

 後世の我々からすれば実に軽率極まりない美術愛好家氏の英断もむなしく、シュテルン本が出版され、さらにその後、同書からの複製画が多様な形態で種々に流布してしまった。ところがである。このシュテルン本の水彩画は、実は偽作であった。フランツ・フォン・バイロスの艶画などを高額な値段で私家出版し、実入りの良い商売を営んでいた店主のシュテルン氏は、ここでもちゃっかりぼろい儲けにありついていたというわけである。『ビルダー・レキシコン』の記述によれば、シュテルン本の水彩画は明らかにフェンディ作のものでなく、低級なしろうと画家によるものであり、フェンディの描写力や彩色の才を看取し得ぬ代物であるという。そして、残念なことにこの駄作を数多くの複製版が流布し、なかでも遺憾なのはエードゥアルト・フックスまでが『エロティック美術の歴史』のなかで偽作の数葉をフェンディ作として取り上げている、との指摘をしている。

 さて、何はともあれシュテルン本のおかげで、十九世紀ウィーンの宮廷画家の名がその道の同好の士にすっかり馴染みになったことは確かである。彼の手になる四十葉の好色水彩画は、秀でた肖像画家のイメージを大いに改めることになった。今日この四十葉以外のエロティック画は知られていないので、それらはフェンディの全創作のなかで例外的な作品であることは間違いないのではあるが。ところでこの宮廷画家のもう一つの顔は、決して驚くに及ばない。彼は恋愛遊戯が何よりの関心事であったウィーンの都の住人だったのだ。フェンディの二面性は、そのままウィーンの二面性の投影であった。性の快楽を享受するに長けたこの都には、二重のモラルがしっかと根を張っていたのだ。

 フェンディが一連の好色水彩画を描いたのは、ロー・デュカによれば一八三五年頃だという。画家が最も脂の乗っていた晩年の、とは言っても四十歳前後の作品である。おそらく、この種の絵画の愛好家である貴族のパトロンから御用をおおせつかったのであろう。それらに描かれているのは、例えば室内の浴槽につかる全裸の娘であり、戸外で嬉々として水浴びに興じるやはり全裸の娘たちと青年たちである。あるいは、娼家と思しき一室で繰り広げられるヴィーナスの歓楽であり、曲芸師のカップルが演じる滑稽で奇想天外な性技の数々である。ヴァイオリンの旋律にのってワルツを舞いながら愛戯に興じる男女たちもいる。いずれの登場人物も若く、潑溂としており、実にユーモラスである。そして心底明るい。彼等はみな羞恥のかけらもなく露骨なほどに性の歓びに酔い痴れ、人生の哀愁や翳りを微塵も感じさせない。圧倒的に無邪気であり、その明るさは白痴的ですらある。

 この心底の陽気さという点において、フェンディはイギリスの偉大なるカリカチュアのパイオニア、ウィリアム・ホガース(一六九七-一七六四)とトマス・ローランドソン(一七五七-一八二七)とは異なっている。ホガースもローランドソンもフェンディと同様にエロティックな戯画をものしたが、ヨーロッパでいち早く政治上、社会上の変革を遂げた紳士の国の作家たちの作品には、しばしば人生の苛酷な側面への言及や社会批評が垣間見られる。とりわけローランドソンの場合、相違はより鮮明である。彼はフェンディとほぼ同時代ロンドンで活躍し、カップルが馬上や馬車の中、二輪車やブランコに乗りながらの、フェンディの曲芸師たち顔負けの奔放な愛交図を描いている。しかし、例えば作品〈災難〉では、痛風病みの足の不自由な老人が吹きだした薬罐の熱湯でやけどをし、助けを求めて叫んでいるにもかかわらず、この御主人様の魅力的な家政婦嬢ときたら、おつとめ中だというのに下男とお楽しみの最中といった図である。この様に、ローランドソンはしばしば若く色香にあふれる娘とともに老人(それも多くは病を患っている)を描く。それに反し、フェンディのカップルは常にともに若く、健康そのものだ。其れというのも、フェンディはもっぱら、享楽的な貴族のおおせに従い描いたからであって、もしローランドソンのように人生の暗い要素や社会諷刺を混じえたならば、大切なパトロンである依頼主の不興を買ったことだろう。ローランドソンがすでに市民芸術の担い手であったのに対し、フェンディは依然として宮廷文化、貴族文化に仕える画家であった。ウィーン宮廷文化の爛熟期に当たるウィーン・ロココを艶やかに彩るのに意を注いだ宮廷画家であったのだ。

 一部の特権階級のために描いたという点、また宮廷画家としての公の顔とは別にエロスの神に仕えるもう一つの顔を有していたという点において、フェンディはロシア宮廷画家ミハリー・ジッチ(一八二七-一九〇六)と近しいものがある。しかしこの類似は創作の動機や外的境遇のうえだけのことであって、両者の画風は全く異なる。それにフェンディにとって好色画は例外的な創作であったのに対し、ジッチにとってそれは生涯にわたり何度も何度も描き続けたものだった。

 軽やかにそして嬉々として性の悦楽に浸るフェンディの痴れ者たち。彼らは享楽的なウィーン・ロココの、ひいては十八世紀フランスのロココの申し子であった。ウィーンの宮廷貴族が革命前のフランス宮廷の放縦な性愛文化に思慕を寄せ、お手本にしたように、フェンディはジャン=アントワーヌ・ヴァトー(一六八四-一七二一)、フランソワ・ブーシェ(一七〇三-一七七〇)、ピエール=アントワーヌ・ボードゥアン(一七二三-一七六九)、そしてとりわけアントワーヌ・ボレル(一七四三-一八一〇)らフランス・ロココの画家たちを見習ったことだろう。こうして優美な装飾趣味、洗練された官能性には欠けるものの、実にユーモラスなウィーン艶笑絵巻を繰り広げたのだ。この絵巻には、そこはかとなく東洋趣味が漂っているが、これはルイ十五世時代のフランス宮廷で東洋風の艶笑譚が流行したことと無縁ではあるまい。例えば、クレビヨン・フィス(一七〇七-一七七七)の代表作『ソファ』(一七七〇)である。この物語は、あるインド王に仕える僧侶が、かつて前世に“ソファ”であったときに見聞した閨房の秘めごとを王に話して聞かせるという奇想天外な趣向である。この僧侶は悪業のために輪廻の法により魂をソファのなかに閉じ込められてしまう。そしてソファである自分の上で、純潔なる男女が互いにその純潔を喪失しあう時まで、この呪いの法は解けぬ定めとされた。かくして、僧侶の魂は純潔なるソファの持ち主を捜し求め、ソファからソファへとさまよい移るはめになる。当然、この呪いは容易に解けることはなかった。作者クレビヨン・フィスは、この物語でルイ十五世の宮廷の放縦な内幕を明に暗に描いたため、王の寵姫ポンパドゥール夫人の進言で流刑の憂き目に遭う。しかし後に許されると、皮肉にも悲劇作家であった父と同様の出版検閲官の役をおおせつかっている。

 東洋風の赴きに加え注目すべきは、フェンディの無邪気な娘たちの尻と太股である。それらの何とみずみずしく、見事に肥えていることか。その豊かな発育ぶりは、太古の豊饒の女神の謂であろうか。いや、フェンディのヴィーナスの淫らに肥えた尻と太股は、決して生殖、多産に適うがためのものでない。ただひたすら甘美なる性愛行為そのものにのみ適うがためのものである。それらは実に容易に男たちの愛を受けとめる。それが証拠に、曲芸師の娘たちの、重力の法則を全く逃れたがごとき愛交図をとくとご覧あれ。それは、この世のあらゆる性の禁忌からの自由、無道徳の譬喩である。つまり、フェンディの厚顔無恥極まるヴィ―ナスは、肥えて鈍重な見た目とは裏腹に、徹頭徹尾尻軽女なのだ。

 

(1)『カザノヴァ回想録』第三巻・第十二章、窪田般彌訳。

(2) Fendi, Peter, Trente-nuef aquarelles erotiques, Paris, Borderie, 1980, p.15.

 

[出典:「ペーター・フェンディ(1796-1842):ウィーンの都の痴れ者たち」(『ユリイカ』24(13), pp.50-56, 1992-12)]

 

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