アーティスト一覧

*年代別ページで紹介したアーティストのアルファベット順一覧です*

 

 

アラステア Alastair  本名Hans Henning von Voight  1887カールスルーエ ~1969

 
 ドイツの挿絵画家、作家。

 じつに繊細な線描と、黒、白、ときに赤の巧みな配色とを特色とし、退廃の気漂う独自の美的空間を創りだした。ビアズリーの影響がつとに指摘されているが、アラステア作品に通底するマゾヒスティックな感覚世界は、彼独自のものである。私生活では、女装趣味や奇矯な立ち居振る舞いで鳴らした。


バク Bac 本名 Ferdinand de Sigismond Bach  1859シュトゥットガルト~1952パリ


 オーストリア出身の素描画家。のちにフランスに帰化。ベル・エポックのパリの時代風俗の描き手。1880年頃を中心に、絵入り娯楽雑誌の『ラ・カリカチュール』、『ラ・ヴィー・パリジエンヌ』、『ジュルナル・アミュザン』、『ル・リール』に、ときに「カブ」(Cab)の筆名を使いながら、おびただしい挿絵を寄稿した。



ボードゥアン、ピエール=アントワーヌ Baudouin, Pierre-Antoine  1723パリ~1769パリ

 

 フランス・ロココを艶麗に彩った画家の一人。ブーシェの愛弟子で、ブーシェの娘婿でもある。師と同様にポンパドゥール侯爵夫人の庇護を受けた。

 ボードゥアンは水彩画の一種であるグワッシュによる細密画を得意とした。《アレオパゴス会議員の前で不敬を咎められるフリュネ》というグワッシュによる歴史画でアカデミー入りを果たし、聖書の挿絵も手がけている。

 しかし、彼の名を高めたのはなんといっても同時代に場面を据えたエロティックな情景であり、やがて春画や枕絵の専門家として名を馳せた。

 そのいっぽうで、ディドロら批評家からは特権階級のデカダン趣味に迎合した頽廃画家として非難を浴びた。1763年および65年のサロンでは、不道徳を理由としてパリ大司教から出品作の撤去命令を下されている。

 ボードゥアンはブーシェのエロティック画に強い影響を受けた。それにくわえ、うわべだけ道徳的な主題や念入りな細部描写には、「道徳画」で一世を風靡したジャン=バティスト・グルーズ(一七二五~一八〇五)の影響も窺える。

 旧体制の末期に春画家として大いにもてはやされたものの、40代半ばにして夭折し、その役回りを親友フラゴナールに譲った。 

 

 

バイロス、フランツ・フォン Bayros, Franz von  別名 Choisy le Conin 1866アグラム~1924ウィーン

 
 オーストリア出身の画家、素描画家、蔵書票作家。侯爵。

 ウィーン・アカデミーで学び、ワルツ王ヨハン・シュトラウスの娘と結婚。前途有望な貴族画家はしかし、束の間の結婚生活ののちミュンヘンに向かい、やがてエロティック画家として知られるようになる。1911年に私家版画集『化粧台物語』がもとでミュンヘン警察に告訴され、国外退去処分を言い渡される。以降ウィーンで挿絵や蔵書票の制作を続けるものの、「エロ画家」の烙印を押されたことに憤懣やるかたない思いを抱きつつ、晩年は不遇と貧困のうちにこの世を去った。

 バイロスのエロティック画家としての独自性は、ビアズリーやロップスに代表される19世紀末芸術のデカダンスと、装飾的で官能的なロココ趣味とを融合させたことにある。

 おもなエロティック画集としては、『小さな花々の巻き貝』(1905)、『ボンボン入れ』(1907)、『蛙のすみか』(1907)、『化粧台物語』(1908)、『C・C夫人の閨房』(1912)、『アフロディーテの苑』(刊年不詳)などが挙げられる。



ボーモン、エドゥアール・ド Beaumont, Edouard de  1821ラニョン~1888 パリ

 

 フランスの画家、石版画家、水彩画家。彫刻家の息子で、1838年にアルザス地方セルネーの風景画をサロンに出品して画家デビュー。やがて風俗画に専心し、おもに挿絵画家として知られるようになる。

 挿絵本としては、V・ユゴー『パリのノートルダム』(1844)、E・シュー『パリの秘密』(1844)、J・カゾット『恋する悪魔』(1845)など。

 

 

ボワリー、ルイ=レオポール Boilly, Louis-Léopold  1761 La Basse~1845 パリ


  フランスの画家、石版画家。おもに革命期からナポレオン一世の帝政時代にかけて活動。

 革命家ロベスピエールの肖像をはじめ、おびただしい肖像画を描くとともに、パリの市民生活など同時代の社会風俗を活写し、それらを版画にして高い人気を得た。

 フランスでいち早く石版術を手がけた画家の一人としても知られる。

 

ボレル、アントワーヌ Borel, Antoine  1743 ~ 1810


  フランスの画家、素描画家。フランス大革命前夜の地下出版界きっての艶本挿絵画家。

 豪華な造本のカザン叢書の出版で知られる書籍商ユベール・カザンのもと、銅版画家のフランソワ・エリュアンと名コンビを組み、ポルノグラフィックな銅版画挿絵の傑作を次々と生みだした。

 

 

 

ブーシェ、フランソワ Boucher, Francois  1703パリ ~1770パリ


 十八世紀フランス・ロココ美術を代表する芸術家の一人。当代一の流行画家で、ポンパドゥール侯爵夫人の寵愛を受け、神話画、肖像画、風俗画から、タピスリーや磁器の下絵、オペラの舞台装飾、ドレスや扇などのデザインにいたるまで、幅広いジャンルで活動した。

 《ディアナの休息》(1742)、《ウルカヌスに捕らえられたウェヌスとマルス》(1754)など、ブーシェの描く女神たちはじつに肉感的である。《ソファに横たわる裸婦》(1752)を初めとする風俗的な裸婦像には、それがいっそう当てはまる。そのため道徳的な嫌悪感をも惹起し、啓蒙思想家のディドロらから卑猥で不謹慎との非難を浴びた。さらに、ブーシェ作と伝えられる幻の秘画の存在も伝えられている。 

 

カラヴァッジョ、ミケランジェロ・メリージ・ダ Michelangelo Merisi da Caravaggio  1571ミラノ~1610ポルト・エルコレ

 

 17世紀イタリアの画家。

 カラヴァッジョについては、これまで繰り返し同性愛の傾向が取り沙汰されてきた。その証拠とされるのが、彼が富裕なパトロンのために描いた、楽器を奏でる若者、バッカス、キューピット、ナルキッソス、それに洗礼者ヨハネなど、愛らしくも艶めかしい美少年たちの肖像である。

 これまで何人もの識者や研究者が指摘してきたように、たしかにカラヴァッジョの美少年系絵画は、ホモセクシュアルな雰囲気を醸しだしていよう。しかしだからといって、ただちにカラヴァッジョ自身が同性愛者であったということにはならない。それを確証する歴史的証拠も、いまのところない。

 そのいっぽう、禁断の愛の気配が窺えるのは、パトロンのデル・モンテ枢機卿らのために比較的初期に描いた一連の作品だけであって、それ以外はほとんど真摯な宗教的作品ばかりである。彼は現存しないが裸婦画だって少なくとも二点描いている(《スザンナと老人》、《悔悛するマグダラのマリア》)。女性の愛人が何人かいたという証拠もある。

 結局のところ、カラヴァッジョと同性愛とを結びつけるものは、両性具有の魅力を湛えた美少年たちの肖像だけである。彼は女を愛したであろうし、一時期若い頃に男も愛したことがあるかもしれない。しかしそれよりはるかに大切なのは、傑出した写実の才と迫真の描写力とを少年たちの青い性にたいして向けたという事実である。

 

 

チェシュカ、カール・オットー Czeschka, Carl Otto  1878 ウィーン~1960 ハンブルク

 

 20世紀前半オーストリアの画家、グラフィックデザイナー。

 ウィーン・アカデミーで学び、グラフィック・アーティストとして挿絵、ポストカード、カレンダー、そして蔵書票を制作するとともに、舞台や家具や宝飾品のデザインなど応用美術のさまざまな分野で活動。1900年にウィーン・ゼツェッションに加わり、やがてウィーン工房の主要メンバーとなる。クリムトとは友人であり、オスカー・ココシュカはウィーン美術工芸学校でチェシュカが教鞭を執っていたときの教え子の一人。

 

 

フラゴナール、ジャン=オノレ Fragonard, Jean-Honoré  1732 グラース~1806 パリ

 

 18世紀フランスのロココ美術を代表する画家の一人。

ヴァトーとともに芽生え、ブーシェによって華々しく開花したロココのエロティック・アートは、フラゴナールのもとで爛熟期を迎える。フラゴナールは金持ち階級の遊惰な生活に親しく交わりつつ、黄昏ゆくロココの熟れた果実をあまたに実らせた。

 フラゴナールは粋な遊び人であり、金持ち遊民との交際を楽しみ、あまたの女性と浮き名を流した。《ブランコ》をはじめとする彼のエロティック画は、つまりは「遊び」であった。ロココは「遊び」が芸術となりうる幸福で希有な時代であったのだ。

 フラゴナールのエロティック画は、すべて女性美の礼賛に捧げられている。彼が描きだす艶景には、無防備な女性のあられもない姿をこっそりと覗き見る「鍵穴エロティシズム」が濃厚に漂う。 また、フラゴナールのエロティシズムは、ヴァトーのようにしっとりと愁いを含んだものでなく、ブーシェのように気取ってもおらず、軽快であけっぴろげであっけらかんとしているのが特色である。

 大革命を機に、フラゴナールは凋落の一途を辿った。新たな時代が幕を開け、社会が禁欲的な空気に包まれるにおよび、彼はいまは亡き師ブーシェとともに、堕落しきった特権階級の快楽に奉仕した頽廃画家との烙印を押されたのである。かつての売れっ子画家はすっかり世間から忘れ去られ、ナポレオン・ボナパルトが皇帝に即位した二年後の1806年、困窮のうちに世を去った。 

 

 

ブショ、フレデリック Bouchot, Frédéric  1798 ~ ?


 フランスの素描画家、石版画家。19世紀前半パリで『カリカチュール』誌などの絵入り雑誌の挿絵で活動したが、いまではほとんど忘れ去られている群小風俗画家の一人。

 ブショは折り畳み部分を開けると秘めやかな艶景が現れる「折り畳み絵(クラップビルダー)」の開拓者として知られる。のぞき趣味のテーマを好み、多くのエロティック石版画をものした。

 なかでももっとも有名なのが、12枚連作の「色狂いの悪魔たち」(Diabolico Foutro Manie)である。そこには、好色な悪魔がおぼこ娘に卑猥ないたずらの数々を働くさまがしたためられている(同連作はアシル・ドヴェリアの作とする説もある)。

 

 

カラッチ、アゴスティーノ Carracci, Agostino  1557~1602

 

 イタリアの画家、版画家。

 16世紀イタリアでは、マルカントニオ・ライモンディが版刻した「イ・モーディ」以来、エロティック版画が次々と現れた。好色版画の興隆期である16世紀にあって、ライモンディ以来の最大のエロティック版画家といえば、ためらいなくアゴスティーノ・カラッチの名を挙げることができる。

 アゴスティーノは、従兄弟のルドヴィコと弟のアンニーバレとともにカラッチ一族としてその名声を美術史にとどめている。彼らは故郷のボローニャで画塾を開き、古代美術とルネサンス美術の理想をモデルの写生素描という現実観察の手段と結びつけ、新しい時代の芸術を目指した。その過程で、とりわけアゴスティーノは異教世界に材とをとったエロティックな情景を熱心に描いている。おもにティントレットら巨匠の有名絵画の版刻に取り組んだが、自分自身が描いた絵画の版刻にもいそしんだ。

 アゴスティーノは「黄金時代の愛」の主題に基づき4点のエロティック絵画を残している(図2-22)。それらは牧歌的な田園風景のなか、いまだ罪を知らない男女たちの愛の交歓をしたためたものだ。

 だがアゴスティーノのエロティック・アートの代表作となると、「ラシーヴィエ」(1584-87)として知られる銅版画の連作を挙げねばなるまい。なお「ラシーヴィエ」とは、イタリア語で「好色」とか「淫蕩」を意味する言葉である。

 この好色版画の連作は、サテュロスとニンフ、古代の神々や英雄たちが繰り広げる愛の交わりが赤裸々に描かれている。印象的なのは、さまざまなセックス体位、とりわけ挿入のさまが強調されていることだ。これは明らかにジュリオ&ライモンディの「イ・モーディ」の影響が見てとれる。

 

 

ショヴェ、ジュール=アドルフ Chauvet, Jules-Adolphe  1828~1905

 
  フランスの画家。やがて愛書家向けの私家版の挿絵画家に転向。

 『ホラティウス著作集』の挿絵(175点)などを手がけるいっぽうで、「裏」の世界では当時を代表する艶本出版者のジュール・ゲやD・ドゥセのもとから数多くのエロティック画をひそかに出版した。

 

 

クールベ、ギュスターヴ Courvet, Gustav  1819オルナン~1877ラ・トゥール=ドゥ=ぺ


  フランスの画家。フランス写実主義絵画の代表的人物。

 神話や聖書に依拠するといった、それまでおおっぴらに裸婦を描く際に求められた慣習的な約束事を排し、より写実的な手法で女性のヌードを描く。そのため、世の道徳的な反感や嫌悪の情を喚起した。

 1853年のサロンに《水浴する女たち》を出品し、皇帝ナポレオン三世と皇妃ウージニーを巻き込む大スキャンダルを巻き起こしたことは有名。

 個人の蒐集家向けに描いた私的な作品では、レズビアンの主題の《眠り》(1866)、女性性器を中心とした女体のトルソーである《世界の起源》(1866)など、いっそう過激な描写を試みている)。

 

クラーナハ、ルーカス(父) Cranach, Lucas the Elder 1472~1553

 

 ドイツの画家。

 クラーナハは敬虔な宗教画にあまた取り組むいっぽうで、生涯の後半にはザクセン選定侯の宮廷画家として仕えつつ、王侯貴族や大商人のパトロンたちにお色気ヌードを次々と供給した。たくさんの注文に応えるために、クラーナハは工房の弟子たちにサンプル画を渡して量産に努めたほどだ。宗教改革が吹き荒れる混乱した世相にあって、多くの芸術家が仕事にあぶれて生活に窮するなか、こうしたヌードの制作はじつに実入りの良い飯の種であった。

 往々にして、クラーナハのヌードには悦楽の戒めがほのめかされている。しかし、こうした戒めは世のモラルに配慮した建前にすぎなかっただろう。

 エヴァ、ヴィーナス、ユディット、ルクレティア等々いろいろに呼ばれようと、クラーナハが描くのはいつもまったく同じ女性である。つまり、細身で優しくうねるような体つき、華奢な肩、カールした長い髪、小ぶりで高い位置にある乳房、球根のようなふくらみを帯びたお腹、軽く盛りあがった恥丘、そしてすらりと伸びた美脚の持ち主である。

 クラーナハについて特筆すべきは、ヴィーナスたちをフェティッシュな道具立て一式によって飾り立てたことである。道具立ての細目としては、薄ものの衣、幅広の帽子、ネックレス、宝石、ベルトなどである。美術史家ケネス・クラークも述べているとおり、クラーナハの美神たちが身につけているこれらネックレスやら腰のベルトやら大きな帽子は、明らかに官能的な意図のもとに描き添えられたものにちがいない。

 クラーナハこそ、フェティシズムを西洋絵画に持ち込んだ張本人である。

 

ドーミエ、オノレ Daumier, Honoré  1808マルセイユ~1879ヴァルモンドワ

 
 フランスの画家、版画家、素描画家。『カリカチュール』誌や『シャリヴァリ』紙などに、おもに同時代の政治と社会生活を風刺する厖大なカリカチュアを寄せる。ドーミエがエロティック画を残したことは一般には知られていない。エードゥアルト・フックスは、ドーミエの五点のエロティック水彩画について言及している。フックスによれば、一点は劇場の桟敷席でいちゃつく男女を描いたものであり、残りの四点はクールベが老境にさしかかった1863年の作で、ルイーズという名の女友達との情事を反映しているという。そのルイーズとの愛の形見には、ベッドで女の股間を愛撫する男や、厨房で後背の交わりをしようとするカップルが、赤裸々に臨場感を込めて描かれている。

 

ドゥノン、ドミニク=ヴィヴァン Denon, Dominique-Vivant  1747~1825


  フランスの版画家、作家、学者。

「ナポレオン美術館」の館長を務め、国外美術工芸品の収奪など、帝国の美術製作を指揮。ルーヴル美術館のドゥノン翼にその名を留めている。

 エロティック画家としては、ウィットと活力溢れる27点の銅版画連作『プリアポス賛』で知られる。同連作では、玉座に鎮座する豊饒の男根神プリアポスが王のなかの王として崇敬されるなど、プリアポスの絶大な力を称賛する場面が見られる。

 多才な人物で、1798年のナポレオンのエジプト遠征の記録である『上下エジプトの旅』(1802)を著す。また、『明日はない』という好色小説をも手がけ、これには文豪バルザックも讃辞を述べたという。

 

ドヴェリア、アシル Devéria, Achille  1800パリ~1857パリ


 フランスの素描画家、版画家。

 作家のヴィクトル・ユゴーやアレクサンドル・デュマ、音楽家のリストら、ロマン主義の芸術家と親交を結び、彼らを描いた肖像画でとりわけ知られる。

 サロンにしばしば歴史画を出品するいっぽうで、入浴や着替え中の女性の艶姿を覗き見的に捉えた数多くのエロティック石版画を制作した。さらに、いっそう過激な石版画を匿名で密造、1830年代パリに輩出した一群のエロティック画家の第一人者となった。

 こうした「裏稼業」での代表作としては、アルフレッド・ド・ミュッセ作とされる『ガミアニ伯爵夫人』(1833)への石版画挿絵12点(ただし、風俗画家アンリ・グレヴドンとの共作)を挙げることができる。

 

アイゼン、シャルル Eisen, Charles  1720~1788


  フランスの素描画家、銅版画家。

 パリで銅版画家のジャック・フィリップ・ル・バに師事し、やはり銅版画家のジャン=ミッシェル・モローやシャルル=ニコラ・コシャンと知り合う。ポンパドゥール夫人の庇護を受けるが、持ち前の傲慢さと浪費癖のために寵を失う。一説によれば、借金の取り立てを逃れてブリュッセルで客死したという。 作品では、歴史、神話、宗教の主題を融合して取りあげた。のちに挿絵に専念するようになる。

 アイゼンのもっとも出来の良いエロティック銅版画が収められた挿絵本としては、ラ・フォンテーヌ『寓話』(1767)、オウィディウス『変身譚』(1767)などを挙げることができる。

 

エリュアン、フランソワ・ロラン Elluin, François Rolland  1745~1810


  フランスの銅版画家、美術商。

 叔父にあたる銅版画家のジャック・ボヴァレのもとでグラヴュールの基礎を学ぶ。やがてパリに出て、ブーシェやグルーズなどロココの巨匠の絵画の版刻を手がける。そののち、書籍商ユベール・カザンのもとで、素描画家のボレルと組んで、ジョン・クレランドの『フィーユ・ド・ジョワ』(1776)をはじめとする数々の好色本のためにポルノグラフィックな挿絵を版刻した。

 

フェンディ、ペーター Fendi, Peter  1796ウィーン~1842ウィーン

 

 オーストリアの画家。

 フランツ一世治下のハプスブルク朝の宮廷画家として、皇帝や皇室一族や宮廷貴族の肖像画をおもに描く。また、その風俗画はフェルディナンド・ゲオルク・ヴァルトミュラーらビーダーマイアー様式の画家たちに影響を与えた。

 フェンディは肖像画に秀でた宮廷画家という公の顔とは別に、エロスの神に仕えるもう一つの顔を持っていた。1835年頃におそらく貴族のパトロンからの注文で、一連のエロティック水彩画をひそかに描いたと伝えられる。

 1910年ウィーンのシュテルン書店から、『ペーター・フェンディ、40葉の好色水彩画』が私家出版された。そこには戸外で嬉々として水浴に興じる全裸の娘や、曲芸師のカップルが繰り広げるアクロバティクな性技の数々が収められている。

 フェンディが描く心底明るくて性の喜びに酔いしれた娘やカップルたちには、フランス・ロココの享楽主義的な精神の影響がうかがえる。

 

 

フォラン、ジャン=ルイ Forain, Jean-Louis  1852ランス~1931パリ


 フランスの画家、版画家。

 エコール・デ・ボザールに学ぶが、それ以上にドガから強い影響を受ける。初めは、『モンド・パリジエン』、『ジュルナル・アミュザン』などの雑誌に、パナマ・スキャンダルやドレフュス事件などを題材とした政治社会的カリカチュアを寄稿することから出発。ドガのモチーフや技法の影響を受けて、室内で入浴したり化粧にいそしむ裸婦をくりかえし描いた。

 

ガヴァルニ Gavarni  本名 Sulpice Hippolyte Guillaume Chevalier  1804パリ~1866パリ


 フランスの画家、素描画家、版画家。

 王政復古の時代から七月王政期にかけて、パリの時代風俗を活写したカリカチュアによって、当時はドーミエよりもはるかに人気を博す。その作品は友人であった文学者のバルザックやゴンクール兄弟から熱い称賛を寄せられ、ドガやトゥールーズ=ロートレックら後世の画家に多大な影響を与えた。

 ガヴァルニのカリカチュアは、きわめて精緻な人間観察と、ダンディで鳴らした人柄からしみ出る品の良さが特色である。時代風俗の鏡であるその作品には、当然ながらエロティックな画題が大きな割合を占めている。ガヴァルニは花の都に渦巻く悦楽の賛美者であり、「グリゼット」や「ロレット」らパリジェンヌを生き生きと描きだした。

 ガヴァルニのエロティック・カリカチュアの代表作としては、十二葉の石版画連作「秘められた生活の情景」を挙げることができる。ガヴァルニの作かどうか真偽は不確なものの、彼が描いたとされるいっそう過激なイメージも伝えられている。

 

ジロデ・ド・ルーシー、アンヌ=ルイ Girodet de Roucy, Anne-Louis  1767~1824


 フランスの画家。通称ジロデ=トリオゾン(Girodet-Trioson)。

 新古典主義絵画の巨匠ダヴィッドのアトリエに学び、1789年ローマ賞受賞。その様式と技法では新古典主義者ダヴィッドの後継者であったが、卓越した感情表現においてはロマン派の先駆者であった。

 題材をギリシア神話から好んで取りあげ、《エンデュミオンの眠り》(1793)では、美の永続性の象徴として、青白い月光のなかに永遠の眠りに就く全裸の美青年エンデュミオンを描きだしている。

 

グランヴィル Grandville  本名 Jean Ignace Isidore Gérard  1803ナンシー~1847ヴァンヴ


  フランスの素描画家、カリカチュア画家。

 社会風俗を諷刺した石版画画集《当世風変身譚》(1829)で成功を収め、『カリカチュール』紙では筆頭寄稿画家として政治的カリカチュアを次々と発表する。ラ・フォンテーヌの『寓話』や国民詩人ベランジェの詩集などへの挿絵でも活躍。

 グランヴィル作と伝えられるエロティック画に、動物の頭をした人物が繰り広げるグロテスクな性愛図絵がある。これは、彼の政治的カリカチュアや《動物たちの私生活と交生活の情景》(1842)で用いられた「獣頭人間」の趣向のエロティックな翻案である。ただし、グランヴィルの奇抜な着想を拝借した周辺画家の作である可能性が高い。

 

ギョーム、アルベール Guillaume, Albert  1873 パリ~1942 フォ


 フランスのカリカチュア画家、素描画家。

前世紀転換期パリの風俗絵巻を繰り広げた。父と兄が建築家で、アカデミズムの画家・彫刻家ジェロームに学ぶ。やがてさまざまな大衆雑誌にイラスト画を寄稿。またサロンに水彩画を出展し、1900年のパリ万博では銅賞を受賞している。

 ギョームのカリカチュアには、平凡なパリっ子のごくありふれた日常にたいする深い関心と愛着がうかがえる。とりわけ魅惑的なパリジェンヌの姿を好んで描いた。そこにはギョームの女性崇拝を見てとることができる。

 

ギース、コンスタンタン Guys, Constantin  1802~1892パリ


 フランスの素描画家。

 40歳を過ぎて独学で絵を始め、もっぱら素描と水彩に取り組む。自分の名が知られるのをひどく嫌い、どのデッサンにも著名を入れなかったのは有名な逸話。作家ボードレールから「近代生活の画家」として称賛されたように、第二帝政時代(1852~70)の一時的で移ろいやすく刻々と変貌を遂げる市民生活をあるがままに記録した。その意味で、クールベら写実主義の先駆をなしたといえる。

 ギースのお好みの主題は女性と軍隊と馬であり、なかでも女性にはもっとも熱心に取り組んだ。彼は花柳界の女たちをくり返し描き、それによってもっとも成功を収めた。

 彼の描く女性はみな娼婦特有の香気を発する。男を魅了し愛欲へと誘う職業的オーラをまとっている。パリの娼婦の年代記作者として、ギースは後世のドガやトゥールーズ=ロートレックに影響を与えたといえる。

 

イカール、ルイ Icart, Louis  1888~1950


 フランスの画家、版画家。

 アール・ヌーボーからアール・デコの時代にわたり、ポストカード、服飾デザイン画、ファッション誌の挿絵、ポスター画、それに豪華本の艶書の挿絵にいたる幅広い分野で活動。

 しかしテーマは一貫して女性であり、小粋なパリジェンヌを活写したファッショナブルな美人画にもっぱら取り組む。それらには、最愛の妻ファニーの面影が陰に陽にうかがえる。

 また、ロココ趣味を想わせるその優美で愛らしい女性の裸体は、生身の肉体というより一種のデザインと化している。この肉体の意図的なデザイン化が、イカールの大きな特色といえる。

 イカールは母国やアメリカで商業的に成功を収めて富も名声も手にしたのちに、一般にはあまり知られていないが、限定出版の豪華本にエロティックな挿絵を提供した。そうした挿絵本は、クレビヨン・フィス『ソファ』(1935)をはじめ、現在のところ全部で20冊以上確認されている。それらには、彼の通常の美人画の一線を越えた、きわどい艶画が散見される。

 

ジョジェ、ルイ Jaugey, Louis 


 版画家、作家、好色本の出版者。フランスに生まれ、1863年以降はベルギーで活動。

『愛の英雄たち』(Les Héros d'amour)への24点のエロティック銅版画(ブリュッセル、1872年)の作者。この銅版画連作は、チェコ生まれの風俗画家カール・ヘルプストホッファーが、イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世のために描いたとみずから吹聴した24点のエロティック油彩画をもとに、銅版に翻刻したものである。

 ジョジェの好色小説の代表作としては、鞭打ち愛好の物語である『冷淡な夫』全3巻(ブリュッセル、1867または1870)を挙げることができる。

 

キルヒナー、ラフェエル Kirchner, Raphaël 1875ウィーン~1917ニューヨーク

 

 オーストリアの画家、素描画家。

 キルヒナーは世紀の境目の1900年にビジュアル文化のメッカであるパリにやってきて、ポストカードとか、『ラシエット・オ・ブール』や『ラ・ヴィー・パリジェンヌ』のような絵入り諷刺雑誌の美人画でめきめきと頭角を現した。彼が描く無邪気で陽気で愛くるしい娘たち、つまり「キルヒナー・ガール」は一世を風靡した。

 パリで成功を収めたのち、第一次世界大戦が勃発すると、キルヒナーは戦火を逃れ、人気ミュージック・ホール「ジークフェルド・フォリーズ」の美術担当として、愛妻ニーナとともにニューヨークに移住した。

「キルヒナー・ガール」は、愛妻ニーナがモデルとされる。彼にとってニーナはヴィーナスであり、インスピレーションの源であった。ちょうどイカールにとってのファニーのような存在だったといえよう。

「キルヒナー・ガール」はなにも女優とか高級娼婦のような特別な存在ではない。パリの中流階級のファッショナブルだがごく普通のお嬢さんたちである。ごく身近なパリジェンヌが化粧し、着替えし、水浴びするといった日常生活の一こまを捉えたものである。そんな彼女の魅力は、じつはセクシーさよりも、女神のような優しさや暖かみにあった。

 それを物語るあるエピソードがある。第一次大戦のとき、イギリスとフランスの兵士はキルヒナーのポストカードを携えて戦場に赴いたものだった。彼らはそれを性欲の捌け口としてではなく、銃弾よけのお守として携えていったのだった。

 1917年ニューヨークで、キルヒナーはまだ40そこそこの若さで急性虫垂炎のために急死する。あまりにもあっけない死だった。そののち、キルヒナーのポストカードの女神たちはアルベルト・バーガスらによるピンナップガールへと引き継がれた。

 

クレーネス、ハインリヒ Krenes, Heinrich 1874~1922

 

 オーストリアの画家、素描画家。

 20世紀の初め頃、好色出版物のメッカであったウィーンに、『ムスケーテ』という週刊誌があった。この風俗雑誌はたくさんの美人画を掲載したが、同誌で筆頭画家として活躍したのがハインリヒ・クレーネスであった。

 クレーネスはいまではまったく顧みられなくなったウィーンの画家である。長い間パリに滞在していたというが、そのほかの詳しい生涯については、いまとなってはほとんど伝わっていない。

 クレーネスが束の間のメディアである週刊誌に残した美人画もその多くが時の流れとともに散逸し、あるいは印刷紙の黄ばみとともに風化しつつある。しかし、クレーネスの美人画は、過ぎし日々ウィーンの熟れた頽廃とパリの洗練された官能とを、いまだにしっかと伝えていよう。

 

 

ル・ポワトヴァン、ウジェーヌ・モデスト・エドモン Le Poittevin, Eugène Modeste Edmond  1806パリ~1870オートゥイユ


 フランスの画家、石版画家。

 1831年に海洋画でサロンにデビューし、風景画や海洋画によって知られるようになる。

 そのかたわら、淫乱な悪魔たちが繰り広げる破廉恥な悪戯の数々をしたためた石版画の連作《好色な悪魔たち》(1832)を匿名で密かに出版し、大好評を博す。以来、好色な悪魔の戯画は大流行し、多くの偽作や模作が流布した。

 

ルグラン、ルイ Legrand, Louis  1863ディジョン~1951リヴリー=ガルガン


 フランスの画家、版画家、素描画家。

ディジョンの美術学校で学び、パリに出て、フェリシアン・ロップスのもとで銅版画を習う。そののち、『ジュルナル・アミュザン』などの絵入り雑誌の人気挿絵画家となる。

 おもに、上流階級の男女の恋愛模様や演劇の世界を好んで描いた。とりわけ踊り子に魅せられ、舞台や楽屋裏の踊り子たちを情感込めて描きだした。それらはドガの作品を思い起こさせるが、ルグランはドガよりもはるかに大衆受けする表現様式をとっている。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチ Leonardo da Vinci  1452ヴィンチ~1519アンボワーズ

 

 イタリアの盛期ルネサンスを代表する芸術家。

 レオナルドのセクシュアリティについては、フロイトの『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年時代のある思い出』(1910)をはじめとして、これまでさまざまに論じられてきた。精神分析学のアプローチがはたしてどこまで妥当かは疑問であるとはいえ、レオナルドが幼くして別れた母親への愛着のために性的抑圧を抱え、ホモセクシュアルやナルシシズムの傾向を強く持っていたのは確かのようである。二十四歳のときに男色の嫌疑をかけられて二ヶ月のあいだ留置されたが、この苦い体験は現実の性行為への淡泊な態度をいっそう深めたと思われる。

 生涯においてレオナルドは性行為に消極的であったものの、だからといって彼の作品世界に官能性が欠けているわけではけっしてない。むしろ豊饒なエロティシズムを湛えているといってよい。イギリスの唯美主義の批評家ウォルター・ペイターは、《モナ・リザ》のうちに、「古代ギリシアの肉欲、古代ローマの淫蕩、霊的な渇望と想像的な愛をともなう中世の神秘主義、異教世界の回帰、ボルジア家の罪業」を見てとっているが、そのとおりであろう。

 官能的な異教世界への回帰がもっともはっきりと表現されたのが、いまは失われたとされる《レダと白鳥》である。この絵画はやがてフランソワ一世の手に渡り、17世紀末まではフォンテーヌブロー宮に所蔵されていたという記録がある。しかし残念ながら、今日では少なくとも3点の習作と同時代のレオナルド周辺の画家による数点の模写をつうじてしか伺い知ることができない。そもそも原画自体が存在しなかったという説もある。 

 

ルクー、ジャン・ジャック Lequeu, Jean-Jacques 1757ルーアン~1826パリ

 大革命前後の激動の時代に生きたフランスの建築家。その経歴や生涯の多くは謎に包まれている。建築家というより、夢想家といったほうがふさわしい。ルクーは建築図面をたくさん残しながら、実際に建てられたのは二つしかなかった。建築不可能な図面も多々ある。フリーメーソンと関係があったのは確かで、建築図の随所にヘルメス主義的神秘思想をちりばめている。貧困と世間の無関心のなか世を去る半年前、その特異な作品をフランス国立図書館に寄贈した。

 「幻視の建築家」としてのルクーも興味深いが、ここで紹介したいのはエロティック画家としてのルクーである。女装し付け胸をした自画像。頬にはチークを入れ、倒錯的というか、なんとも脳裏にこびりつく笑みをたたえている。または、両股開きの女体図。女陰と陰毛がリアルに描かれ、随所に書き込みが記されている。男女の性器をクローズアップで克明に描いた一連の素描もある。ここには特異な性癖やオブセッションとともに、解剖図的な冷めたまなざしも感じられよう。

 ルクーのエロティック画は、サドの文学や、大革命期に流布した無名画家の好色画と同じく、激動の時代を根底から突き動かしていた莫大なエネルギー、過剰なリビドーの現われであったように思えてならない。

 

モラン、ニコラ・ユスタシュ Maurin, Nicolas Eustache  1799ペルピニャン~1850パリ


 フランスの画家、石版画家。

 画家一族の出身で、風俗画や歴史画や同時代の名士の肖像画を得意とした。市民王ルイ・フィリップ治下の七月王政期(1830~48)に、人気風俗画家として持てはやされるいっぽう、裏の世界ではライバルのドヴェリアと同じく好色石版画を量産。

 モランは好色版画を手がける際、ロココの艶情版画家たちに倣い、二重版画の手口を使った。つまり、いっぽうは一般の市場で売買される良風美俗に適った版画で、もういっぽうはそれが節度で覆われる前の赤裸々な版画というふうに、一つの作品を二とおりに作った。むろん、当局の目をくらますためである。

 『ヴィー・アン・ローズ』誌の巻頭を飾った女性ヌードで裁判沙汰に巻き込まれるようなこともあったが、検閲にひるむことなく闇の市場に好色画を供給し続けた。

 

ミケランジェロ・ブオナローティ Michelangelo Buonarroti  1475カプレーゼ~1564ローマ

 

 イタリア盛期ルネサンス期の芸術家。

  ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂を飾るミケランジェロの《最後の審判》や天井画には、正直言って辟易させられた向きも多いのではなかろうか。神聖なる礼拝堂に、いかに聖書を題材にしているとはいえ、筋骨隆々たるはだかのキリスト以下、マッチョな男たちが織りなすヌードの洪水である。

 毒筆で鳴らしたルネサンスの怪人物ピエトロ・アレティーノに、1545年の公開書簡で「女郎屋の壁に掛けるのがお似合いだ」と毒づかれ、はては弟子のダニエーレ・ダ・ヴォルテラによって腰巻きが加筆され局所が隠されるにいたったのも、当時のモラルを考えれば宜なるかなである。ちなみに、ヴォルテラはこの雇われ仕事によって「フンドシ屋」なるあだ名を頂戴したのは有名なエピソードだ。

 ミケランジェロの作品を理解する最大の鍵は、古代彫刻でも人体解剖学でもない。じつはこの悲劇的天才のセクシュアリティにある。キリストのセクシュアリティという刺激的テーマに初めて取り組み物議を醸した美術史家レオ・スタインバーグは、ミケランジェロのピエタ像のエロティックな魅力を論じた論考で次のように述べている。「ミケランジェロの芸術表現法の多くは、その奥に潜むセクシュアリティを解明しないかぎり理解できない。彼が表現する肉体は、動作中のものであれ、静止したものであれ、その肉体の性によって支配されているのだ」。

 ミケランジェロ理解の最大の鍵、それははっきりいって同性愛にほかならない。エロティック・アートの蒐集、研究にいち早く取り組んだエードゥアルト・フックスも指摘しているように、同性愛の資質は彼のすべての作品に息づいており、その刻印が残されていないような作品は一つとしてないといってよい。

 したがって、システィーナ礼拝堂のあの筋肉美溢れる男たちの群像から、《瀕死の奴隷》や《ダヴィデ》といった男性裸体彫刻、それにユピテルが鷲に変身して美貌の少年を連れ去るという《ガニュメデスの誘拐》のような素描にいたるまで、ミケランジェロ作品は総じて、まず第一に男性の肉体の性的な魅力に捧げられたものと考えて差し支えないであろう。 

 

ミレー、ジャン=フランソワ Millet, Jean-François  1814 ~ 1875


 フランスの画家。

 《種播く人》(1850)、《落ち穂拾い》(1857)、《晩鐘》(1859)などの農民画でつとに高名。ただし、このフランス写実主義絵画の巨匠が、傑出したエロティック画家でもあったことは、一般にはあまり知られていない。

 愛の行為のさなかの男女や、自慰に耽る全裸の娘を描いた彼の素描画には、われを忘れて愛欲の世界に沈潜するさまが、ほの暗い画面から圧倒的な臨場感をもって浮びあがっている。

 ミレーが好んでエロティック画を手がけたのは、1837年にパリへやって来てから49年にバルビゾンに定住するまでの、いわゆる「官能の時代」である。

 ところが、49年のある日、画商のウィンドーの前で自分の作品を目にした通行人から、「あの女の胸と尻を専門にしている男」と言われたのを耳にして「改心」する。

 それ以降、農民画に専心。しかし、プライベートにはエロティック画を描き続けていたようだ。また、直接的に官能的な作品だけでなく、「手押し車を押す男」や「薪の束を運ぶ女たち」のような彼のおもなモチーフのなかにも、画家のやみがたいエロスの衝動を見てとることができよう。

 

パスキン Pascin 本名 Julius Mordecai Pincas  1885ヴィディン~1930パリ


 ブルガリア生まれの画家。エコール・ド・パリの画家の一人にしばしばならび称されるが、その作風からすれば、どのような流派にも属さない独創的な画家であった。

 若くして、ドイツの絵入り諷刺週刊誌『ジンプリチスムス』で天賦の早熟な素描の才を発揮。第一次世界大戦中にアメリカで市民権を取得し、1920年にパリに戻ってきてからは、スーティン、モディリアーニ、シャガールらエコール・ド・パリの画家たちと交流する。

 晩年はパリのモンマルトルにアトリエを構え、淡い色彩と繊細な筆致で、退廃的雰囲気に包まれたおもに思春期の少女のヌードを水彩で描いた。また、売春宿やアトリエでの性愛の悦楽をしたためた一連の素描画は、きわめて倒錯的である。

 実生活でも退廃と悦楽の日々を重ね、ジョルジュ・プティ画廊での大々的な個展開幕の当日に、まだ年若くしてみずから命を絶った。

 

ピピーファクス Pipifax

 
 エロティック画集『エロ・グロ』(Erotische Grotesken)の作者。生没年をはじめいっさい不詳。ただし、ピピーファクスというのはまず間違いなく筆名である。真の作者はドイツ印象派の画家マックス・リーバーマン(一八四七~一九三五)とする説があるが、真偽のほどは定かでない。

 『エロ・グロ』は両大戦間に地下出版された。刊記の記載はないが、おそらく一九二〇年頃ベルリンで出版されたものと思われる。水彩で彩色された十二点のエッチングが収められている。内容は男根を中心に織りなされるグロテスクでコミカルな好色画であり、女性嫌悪やフェティッシュな幻想がうかがえる。

 

 

ラファエロ・サンツィオ Raffaello Sanzio  1483ウルビーノ~1520ローマ

 

 イタリア盛期ルネサンスの画家・建築家。

 レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの盛期ルネサンス御三家のうち、ただ一人明らかに異性愛者であったのがラファエロである。

 画家で伝記作者のヴァザーリによれば、ラファエロはたいへん女好きで、惚れやすい人であったという。親友アゴスティーノ・キージから邸宅の装飾を頼まれたときのこと、ラファエロはある女性に熱をあげるあまり仕事に手がつかなくなっていた。仕事はどうにか完成したが、それはラファエロがその女性と仕事場でいっしょに住めるよう便宜を図ってもらったおかげであった。そんなプレイボーイの彼が37歳の若さで夭折したのは、女性との「際限を知らない快楽」のためであったという。

 ラファエロは自分の恋人をしばしばモデルに使っている。なかでも、彼が死の直前まで隠し持っていたという《ラ・フォルナリーナ》は、最愛の恋人の一人を描いたとされる。しかし、この絵に描かれた半裸の女性もまた、彼の聖母子像の慈愛に満ちた聖母たちと同じく、現実のモデルをもとにラファエロの心の目によって再構成された理想の女性の姿であるにちがいない。

 

 

レンブラント・ハルメンス・ファン・レイン Rembrandt Harmensz van Rijn  1606ライデン~1669アムステルダム

 

 17世紀オランダのバロック絵画の巨匠。

 レンブラントは、崇高で精神的なものを追求するのと同じ熱心さでもって、羞恥なもの、醜いもの、ぶざまなものにも等しくまなざしを向けた。しかも、そのまなざしはじつに容赦なかった。

 若きレンブラントは、世に流布する理想的な女性ヌードにたいして強く反発し、生身のはだかというのが本来いかに不格好であるかを突きつけた。スリム体型信仰に悩まされる昨今の女性にはじつに心強いことに、そんなきれいなヌードは文字どおり絵空事で嘘っぱちというわけだ。

 レンブラントは女性のはだかだけでなく、セックスの描写にも同じような赤裸々なまなざしを向けた。たとえば、僧侶が麦畑で女と交わる場面を描いた銅版画である。これは、16世紀ドイツの画家ハインリヒ・アルデグレーファ(1502~50頃)による反カトリック的な銅版画を下敷きにしたと考えられる。

 《フランス式ベッド》は、レンブラントが愛妻サスキア亡きあとに家政婦として迎え入れたヘンドリッキエ・ストフェルスとの愛の営みをしたためたものと伝えられている。よく見ると下になった女性の腕が三本ある。左腕がふた通りに描かれているためで、それによってこのプライベートな性愛の写し絵は未完であることが分かる。

 スカトロジックな銅版画もある。一点は、女性が屋外でスカートをたくし上げ、股を広げて放尿している場面だ。これは一説によれば、画家の妻サスキアがモデルとされる。女の放尿図だけでなく、男が道端で立ち小便している図もある。

 レンブラントは豊富な版画コレクションの持ち主だった。そのなかには、ジュリオ・ロマーノ&M・ライモンディの「イ・モーディ」の複製画や、アゴスティーノ・カラッチの「ラシーヴィエ」をはじめ、ラファエロ、ロッソ、アンニバーレ・カラッチらによる16世紀イタリアの好色版画もあったことが知られている。レンブラントは一連のエロティック版画を創作するうえで、こうしたコレクションから大きな影響を受けたにちがいない。

 

 

レズニチェク、フェルディナント・フォン Reznicek, Ferdinand von  1868ウィーン~1909ミュンヘン

 

 ドイツの素描画家。

 ウィーン近郊の貴族の家柄に生まれる。オペラ『ドンナ・ディアナ』の序曲で知られるエミール・ニコラウス・フォン・レズニチェクとは異母兄弟。

 はじめ軍職にあったが、やがて独学で絵を描き始め、パリとミュンヘンの美術学校で学ぶ。1896年ミュンヘンで創刊された絵入り週刊誌『ジンプリチシムス』でおもに活躍し、ほどほどのお色気と軽い社会諷刺を交えた挿絵で人気を博する。小説の挿絵、シャンパン広告などのポスター画、ポストカード、ブックカバーやカレンダーなどのデザイン画でも麗筆をふるう。

 レズニチェクのお得意はもっぱら女性であり、上流階級の見目麗しい令嬢や貴婦人、歓楽街の娼婦、ウィンナワルツやカンカンの踊り子たちの艶姿を品よく物語性豊かに描きだした。

 

ローランドソン、トマス Rowlandson, Thomas  1756ロンドン~1827ロンドン


 イギリスの水彩画家、カリカチュア画家。

 パリのアカデミー・ロワイヤル、創立したてのロンドンのロイヤル・アカデミー・スクールズに学ぶ。作品は素描だけでも四千点を超え(その約四分の一が銅版画に複製された)、画題は当時の社会風俗のあらゆる事象に及んでいる。美術史上は、18世紀の艶情版画と、ドーミエやコンスタンタン・ギースらの写実的な社会時評との橋渡しをした人物に位置づけられる。

 無類の遊び人であったローランドソンは、かなりの数のエロティック画を残している。1906年ウィーンのシュテルン書店は『トマス・ローランドソンの50のエロティック滑稽画』を出版、そののち同書からさまざまな複製本が流布した。今日もっとも日の目を見ているローランドソンの艶笑画は、この本に由来する50点である。

 それらは先達ホガースのように説教臭くなく、同時代のギルレイのように政治的でも辛辣でもない。なんといっても陽気な笑いとユーモアに溢れている。また、若い娘の裸身に好色な老人らが熱い視線を投げかけるといった構図がしばしば見受けられ、覗き見趣味も顕著にうかがえる。

 

ステーン、ヤン Steen, Jan  1626頃ライデン~1679ライデン

 

 17世紀オランダの風俗画家。

 市民階級が台頭した17世紀オランダの風俗画では、民衆の日常生活に取材した「健全」な情景とともに、売春宿や居酒屋での艶景、寝室でのご婦人の着替え、聖職者の悪徳といったエロティックな主題がしばしば取りあげられた。

 こうした風俗画をよく手がけた画家としては、ロウソクの光の効果を好んで用いたヘリト・ファン・ホントホルスト(1590~1656)、レンブラント、レンブラント晩年の弟子アールト・デ・ヘルデル(1645~1727)などがいる。しかし、お色気混じりの風俗画でもっとも健筆を振るった画家といえば、レイデン出身のヤン・ステーンの名を挙げなければなるまい。

 ステーンはきわめて多作で、現在では約900点もの作品が知られている。また、風俗画ばかりでなく、肖像画や歴史画や宗教画も手がけるなど、じつに多才な画家であった。

 ステーンはヌードを描くことはない。登場人物はちゃんと服を身につけている。せいぜいのところ、女性の胸元か太股を露出させるくらいである。しかしウィット、状況設定の妙、それに題材のレパートリーの豊富さによって、お色気を引きだす術に長けていた。

 ステーンはビール醸造者を父親に持ち、彼自身も画家になる以前は何年か居酒屋の亭主をしていた。庶民と同じ目線の持ち主だったといえよう。彼の風俗画からにじみ出る庶民の好色や悪徳にたいする共感と理解は、一つにはそうした経歴からおのずと醸しだされたものにちがいない。 

 

 

タサセール、ニコラ・フランソワ・オクターヴ Tassaert, Nicolas François Octave  1800~1874


 フランスの画家、石版画家。

 ロマン主義と写実主義の過度期に活動し、歴史画、宗教画から風俗画、小説の挿絵にいたるまで幅広く手がける。エコール・デ・ボザールに学び、当初は歴史画に取り組んでいたが、やがて社会の貧困をテーマとする写実主義的な画風へと移っていった。

 そのいっぽうで、おそらく生活の糧を得るためであろう、エロティック画にもいそしんだ。ボードレールはある美術批評で、「タサエールはじつに大きな取り柄を持った画家、その才能が恋愛の主題にこのうえもなく上首尾に適用されるであろう画家」と称賛している。

 タサエールはコレッジオ流の官能的な女性ヌードを何点も制作し、「屋根裏部屋のコレッジオ」とのあだ名を頂戴している。また、ネオ=ロココ風の艶雅な閨房図を数多く手がけ、「貧者たちのプリュードン」とも呼ばれる。さらに、いっそうあからさまなポルノグラフィックな好色石版画にも手を染め、愛戯に耽るカップルたちを陽気なタッチで描きだした。

 

ターナー、ジョセフ・マロード・ウィリアム Turner, Joseph Mallord William 1775~1851

 

 18~19世紀イギリスの画家。

 風景画の巨匠ターナーが人知れずエロティック・アートをものしていたという事実は、一般にはほとんど知られていない。

 批評家のジョン・ラスキンは、信奉するターナーの死後、残された厖大な素描の整理にあたった。すると、保存するに”ふさわしくない”一群の作品に出くわすことになった。ラスキンは英断を下す。彼はナショナル・ギャラリーの保管委員の権限において、それらを焼却してしまったという。

 典型的なヴィクトリアンである貞潔なラスキンとしては、崇高な風景画の巨匠に、性器や交合の図など許し難かったようだ。ただし、彼はターナーに好色な一面があることを承知していたと思われる。というのも、ターナーの人格のおもな要素の一つは色好みである、と語っているからである。

 事実、ターナーは終生独身だったものの、活発な性衝動の持ち主だった。若い頃から売春宿に足繁く通い、未亡人のセアラ・タンビーとのあいだに二人の私生児をもうけ、老境にさしかかってからも、またもや寡婦のソフィア・ブーズという女性と人目をはばかりながら同棲している。

 幸いなことに、ラスキンの英断を逃れたエロティカは少なからず現存している。最近の研究によれば、そもそも実際に焼却されたのか疑問を呈する見解が示されている。いずれにしても、女好きで酔っぱらい、私生児の生みの親というターナーの素顔は、そうした彼の知られざるエロティック・アートが雄弁に物語っていよう。

 

 

ファン・エイク、フーベルト Van Eyck, Hubert 1370頃-1426   

ファン・エイク、ヤン Van Eyck, Jan 1390頃-1441

 

 15世紀初期フランドル派の画家。

 西洋美術の人体表現には、ギリシア・ローマ芸術に端を発する、完璧な人体美を追究した、理想的な裸体像の流れがある。しかし、美術史家ケネス・クラークがいうとおり、それとは別にもう一つの流れもある。それは、中世の写本挿絵や教会の彫像や墓碑のレリーフに登場する、罪に打ち震える貧弱で頼りなげなはだかの人間から発した、いわゆるゴシック風の裸体像の系譜である。そのもう一つの流れのなかでも、もっとも成熟したかたちを私たちに示しているのが、ゲント祭壇画の《アダム》と《エヴァ》であろう。

 ゲント祭壇画はフーベルトとヤンのファン・エイク兄弟によって描かれたとされる。しかし、どこまでが兄フーベルトの手になり、どこまでが弟ヤンの手になるかは、いまとなっては定かでない。現ベルギーのゲント市にある聖バーフ大聖堂内の礼拝堂のために制作され、1432年に完成を見た。祭壇画は上下2層からなる計12枚のパネルで構成されており、《アダム》と《エヴァ》は上層の左右両端翼にそれぞれ配されている。なお、下層中央部のパネルが、この祭壇画の別称でもある《神秘の子羊の礼拝》である。

 《アダム》と《エヴァ》は北方の板絵としてはもっとも古い裸体画の一つである。おそらくフーベルトの原画をヤンが仕上げたものとされている。ほとんど等身大で描かれており、筋肉の陰影、浮き立った血管、それに陰毛にいたるまで、誕生したての油彩技法でじつにありありと活写されている。それゆえ、生身の人間の温もりや息づかいが伝わってくるようだ。 

 

 

ファン・メール、マルタン Van Maele, Martin  1863~1926


 フランスの挿絵画家。

 作品の大半をパリのカラントン書店より出版している。

 悪魔的な黒いエロスの画風や画題を好み、銅版画を多用した点で、先達であるロップスの亜流画家との印象を拭えない。代表作は『生者たちの大いなる死の舞踏』(La Grande Danse macabre des Vifs, 1905~09)の銅版画40点であるが、ロップスの『サタニーク』の影響を感じさせる。

 その他、歴史家ミシュレの『魔女』への挿絵(銅版画15点、木版画54点、1911年)、アプレイウス、ボードレール、ジョン・クレランド、E・A・ポー、ヴェルレーヌなど、古今の作家たちの文学書に挿絵を描いている。

 

ヴァーガス、アルベルト Vergas, Alberto  1896~1982


  ペルーに生まれ、アメリカで活動した画家。

 南米で高名な写真家であった父親と同じ道を歩むために、ヨーロッパで写真術を学ぶ。しかしやがて独学で絵を描き始め、画家となる決心をする。

 第一次大戦中にアメリカ合衆国に渡り、そこで1920年代から70年代の長きにわたって、美しくグラマラスなアメリカ娘、いわゆる「ヴァーガス・ガール」を描き続けた。

 「ヴァーガス・ガール」は、ピンナップガールとして『エスカイヤー』誌や『プレイボーイ』誌を艶やかに彩り、GIたちのマスコットガールとなった。

 それはまた、マレーネ・ディートリヒ、グレタ・ガルボ、ジェーン・ラッセル、エヴァ・ガードナー、マリリン・モンローら往年のハリウッドの大女優の妖艶なポートレイトでもあった。

 

ヴィダル、マリー・ルイ・ピエール Vidal, Marie Louis Pierre  1849トゥール~1913または1929パリ


 フランスの素描画家。

 O・ユザンヌ著『パリの女』(1894)やG・モントルゲイユ著『モンマルトルの生活』(1899)への挿絵などで、19世紀末のパリの時代風俗を、ときに優美に、そしてときに露骨なほどリアルに描きだした。

 

 

 

ヴァトー、ジャン=アントワーヌ Watteau, Jean-Antoine 1684ヴァランシエンヌ~1721ノジャン=シュル=マルヌ


 18世紀フランスのロココ様式を代表する画家

 ヴァトーといえば、貴顕男女の野外での典雅な宴を主題とした風俗画を手がけ、「雅宴」の画家として知られる(《シテール島の巡礼》など)。

 あまり知られていないが、ヴァトーはエロティックな作品をかなり描いていたと思われる。ところが、死の間際になって、「不名誉」な作品を破棄するよう友人に依頼した。そのため、その手の作品は現在ほとんど伝わっていない。

 しかし、「粛清」を免れたエロティック画もある。浣腸される裸婦を描いた素描画も、その一点だ。この素描画は、憂愁、夢想、憧憬といった柔和な形容で語られてきた雅宴の画家のもう一つの顔を雄弁に物語っていよう。

 

ジチ、ミハーイ Zichy, Mihály  1827ザラ~1906サンクトペテルブルク

 

 ハンガリーに生まれ、おもにロシアで活動した画家。

 ハンガリーの地方貴族の家柄に生まれ、ウィーンでヴァルトミュラーに師事し、そののちロシアに渡ってアレクサンドル二世、アレクサンドル三世、ニコライ二世の歴代三代にわたりロシア宮廷画家をつとめる。ロシアの宮廷画家、アカデミー画家として、あまたの肖像画や風景画や歴史画をこなすとともに、レールモントフ、ゲーテ、ゴーチエらの著作に見事な挿絵も手がけた。

 この多才な画家はエロティック・アートでも麗筆をふるった。この手の作品を生涯にどれだけの数を描いたかは不明である。しかし、今日ジチのエロティック画といえば、『愛』(リーベ)と題されて1911年にライプチヒで300部限定で私家出版された素描集の40点がもっともよく知られている。

 『愛』には、当時としてはじつに倒錯的な主題が赤裸々に語られている。男色、男同士のマスターベーション、クンニリングス、フェラチオ、幼児の手淫、老人の小児性愛、妊婦との性交、マスターベーションする子供たち等々。

 『愛』はじつのところ、ジチの性愛の回想録のようだ。性衝動に目覚める幼児期に始まり、召使い女、叔母、家庭教師、モデル、そして妻とのめくるめく性愛の追想に彩られている。ジチは象徴的手法をいっさい用いず、性愛描写の自然主義を貫いている。回想のなかの性行為の「現場」を押さえた作品、それが『愛』である。

 

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