ホラティウス『エポドン』五、カニディアの祈り(紀元前四一~三一年頃) Horatius, Epodon liber V, Canidia's Incantation (ca. 41-31 B.C.)

【解説】

 古代ローマの古典文学において、中世以降の魔女像の形成に少なからぬ影響を与えたものの一つとして、ホラティウスの『エポドン』に歌われた妖女カニディアを挙げることができる。

 クィントゥス・ホラティウス・フラックス(Quintus Horatius Flaccus、前六五~前八年)は、アウグストゥスと同時代に生きたラテン文学黄金期の抒情詩人である。『エポドン』は、ギリシアの詩人アルキロコスの詩風に倣った全十七編の詩集であり、政治・風俗の諷刺や個人攻撃や恋の歌からなっている。

 ホラティウスは『エポドン』五で、魔法使いの女カニディアのおぞましい所業について綴っている(カニディアの名は、同書三と一七にも登場する)。彼女はサガナやヴァイアやフォリアといった仲間たちと一緒になって、ローマの良家の少年たちを誘拐しては、首だけ出して地中に生き埋めにする。そして、目の前にご馳走を見せつけながら飢え死にさせるのだった。その目的は、少年たちから髄や肝臓を取りだして、新たなより強力な媚薬を調合するためである。この媚薬でもって、カニディアはかつての恋人ヴァールスの愛を取り戻そうとする。というのも、ヴァールスは、恋敵から対抗魔術をかけられたせいで、以前の媚薬が効かなくなり、自分の愛に応えてくれなくなってしまったからである

 ホラティウスは、残忍でグロテスクな女魔法使いのイメージを描いたからといって、なにも魔術を真に受けていたたわけではない。また、魔術の恐ろしさを伝えようとしていたわけでもない。開明的で洗練された都会人であった彼は、皇帝アウグストゥスが布告した魔術禁止の布告にも賛同したとされ、魔術の力なるものを疑っており、そうしたいかがわしい術を使う女たちに金銭を払って占いや魔法を依頼することに批判的であった。

 一説によれば、カニディアはナポリで美顔用の軟膏を商っていた実在の女がモデルであり、ホラティウスの愛人だとも伝えられるが、真実のほどは疑わしい。なお、ホラティウスは『諷刺詩(Satirae)』(前三五~前三〇年頃)一・八でもカニディアを登場させ、この鬼女が夜間に墓地で人骨を掘りだすさまを描いている。

 

【出典】

* Horace, The Odes and Epodes, with an English translation by C.E. Bennett, Cambridge, Mass., Harvard University Press, 1927, pp.375-381.

*翻訳に際しては次の資料を参照した。Horace, Odes and Epodes, edited and translated by Niall Rudd, Cambridge, Mass., Harvard University Press, 2004, pp.281-287.

【翻訳】

 「それにしても、いったい全体、この騒ぎは何なんだ。どうしてお前たちみんな(1)して、僕のことをそんな恐ろしい目つきで見るんだ。ルーキーナ様(2)をお招きして、ちゃんとお産に立ち会ってもらったのなら、そうして産まれたお前たちの子供たちにかけて、この紫の衣装のつまらない飾りにかけて、こんな行いをお咎めになるにちがいないユピテル様にかけて、お願いします。おまえたちは、どうして継母や槍で傷を負った獣のような目つきで、僕のことを見つめるんだ」。

  少年は口を震わせてこのように訴えたが、身につけていた年齢や身分を示すすべてのものを剥ぎ取られ、その場に佇んでいた。その幼い姿には、不遜な心の持ち主であるトラキア人(3)でさえほだされたことだろう。けれども、小さな蛇の絡む乱れ髪をしたカニディアは、墓場から引き抜いた野生の無花果[イチジク]の樹、葬儀用の糸杉、醜いヒキガエルの血が塗られた卵、夜のフクロウの羽毛、毒薬を豊富に産するイオルコス(4)とヒベリア(5)からもたらされた薬草、そして飢えたメス犬の顎からもぎ取った骨をみんな一緒くたにして、コルキス(6)の炎にくべるよう命じた。いっぽう、裾をからげて待機していたサガナは、そのつんつんした髪を海のウニや興奮したイノシシのように逆立てながら、アヴェルノ(7)から汲んできた水を家じゅうに撒き散らす。ヴァイアはなんら気がとがめることなく、骨折り仕事でうめき声を上げながら鉄の鍬で地面に穴を掘る。こうして、泳いでいる人が顎まで水に浸かって浮いているような具合に、少年を首だけ出すようにして地面に埋め、日がな二度三度と取り替えられる食べ物を眺めつつじわじわと死んでいくようにするのだ。彼女たちの目的は、許されない食べ物を凝視した子供の眼球がついに朽ち果てたとき、その干からびた髄や肝臓を取りだして、それで媚薬を作るためである。ひまをもてあましたナポリやその近隣の町々の人々の噂によれば、アリミヌム(8)出身の淫らなフォリアもその場にいたという。フォリアはテッサリアの呪文で月と星々に魔法をかけ、それらを天空から引き下ろす。すると、カニディアはのばした親指の爪をくすんだ色の歯で噛む ― いったい彼女は何と言ったのか、または何を言わなかったのであろうか。

 「おお、わが行いの忠実な証人である夜よ、秘儀が執りおこなわれる静寂なときを統べるディアナよ、お願いですからいまこそ私に救いの手を差しのべ、いまこそわが敵の家々にあなた様のお怒りとお力を差しむけてください。恐ろしい森では獣たちが甘き眠りにひたってひっそりと横たわっているというのに、スーブラ(9)の犬たちは老いた漁色家(10)に吠えたて、それを見て人々は笑っています。彼は私がこれ以上にないほど見事に調合した霊薬を塗られているというのに。なぜうまくいかなかったのかしら。どうしてあの残酷なメデイアの恐ろしい薬が効かないのでしょう。メデイアが、逃亡する前に、彼女の高慢な恋敵で、偉大なるクレオン王(11)の娘に、復讐を果たした薬だというのに。メデイアは毒を染みこませた衣を結婚の贈り物として渡し、うら若き新婦を炎につつんで焼き殺したのです(12)。それに、私はどんなに荒涼とした地に潜んでいる草や根も見逃しはしなかったのに。あの人が寝ているベッドには、私以外のすべての恋人を忘れさせるために薬を塗りつけました。ああ、それなのに!彼はもっと賢い魔女のまじないのおかげで自由に歩き回っているわ。恥知らずのヴァールスよ、やがてあなたはこれまでのことをひどく後悔するでしょう。とっても強い薬を盛られて、私のもとに飛んで帰ってくるわ。あなたの愛は戻るでしょう。けれども、その愛はマルシ族(13)の魔術のおかげで呼び起こされたわけではありません。もっと強力なやつを使うつもりよ。つれないあなたをふり向かせるために、もっと強力なやつを調合してやるわ。たとえ天空が海のしたに沈み、地が天空のうえに広がったとしても 松脂が煙を立てて燃えあがるように、あなたは私への恋情を燃やさずにはいかないでしょう」。

 すると、少年はよこしまな鬼婆たちに懇願しようとする気持ちがもはやなくなり、どのように切りだそうかと迷っていたが、ついにはテュエステース(14)の呪詛の言葉を発した。「魔法の毒では、善悪をひっくり返すことも、人の恨みの念を変えることもできやしないんだ。おまえたちを呪い続けてやるぞ。どんなにいけにえを捧げたって、恐ろしい呪いを解くことなどできないんだ。それに、僕が無理やり命を絶たれて死んだなら、復讐の女神となって夜に化けて出てやるぞ。僕の幽霊がおまえたちの顔をかぎ爪でもって引き裂いてやる。死者の霊にはそうした力があるんだ。おまえたちの苦しみもがく胸のうえにしゃがみ込み、眠りを妨げ、世にも恐ろしい目に遭わせてやるんだ。街のどの通りでも、通りのどちらの側からも、おまえたちは石を投げつけられ、打ち殺されてしまうだろう、この汚れた鬼婆どもめ。それから、エスクイリーノの丘(15)のオオカミやハゲワシに、埋葬されないままのおまえたちの手足はバラバラにされるんだ。ああ、僕よりも長生きする両親は、この光景を見て嬉しがるにちがいない」。

 

【訳註】

(1)魔女のカニディアや、その一味であるサガナやヴァイアやフォリアたち。

(2)ローマ神話で出産を司る女神。ユノの分身の一つ。

(3)トラキアはバルカン半島東部の歴史的な地域名で、古代ギリシア時代にはトラキア人と呼ばれる民族が住み、独自の文化が栄えた。彼らはギリシア人からは蛮族[バルバロイ]と見なされていた。

(4)テッサリアの町。毒草の産地として知られた。

(5)トラキアの黒海沿岸の町。やはり毒草の産地として知られた。

(6)コルキスはグルジアに紀元前六世紀から栄えた王国の名。ギリシア神話で残忍な魔女として描かれている王女メデイアの故郷であり、魔術のメッカであった。

(7)ナポリ近郊の湖。ローマ神話では冥府の入り口と信じられた。

(8)イタリア北部の都市リミニの古代名。

(9)ローマの貧民街にして色街。

(10)後出のヴァールスをさす。カニディアは明らかに彼に恋の魔法をかけた。ところが効き目はなかった。なぜなら、彼には恋人がいたからである。そこで、カニディアは少年の髄や肝臓から作ったさらに強力な媚薬で彼を籠絡しようとしているのである。

(11)コリントスの王。娘のグラウケを救おうとしてメデイアに殺された。

(12)ギリシア神話によれば、イオルコスの王子イアソンは黄金の羊毛を求めてコルキスへ赴き、王女メデイアの魔力に助けられて目的を達成した。しかしそののち、メデイアとの誓いを破棄して、クレオンの娘グラウケと結婚しようとした。それを知ったメデイアは見事な花嫁衣装を贈るが、グラウケがそれを着た途端に花嫁衣装は炎につつまれ、娘を助けようと駆け寄った父の王もろともに焼け死んでしまう。

(13)ローマの東方に住んでいた古代イタリアの民族で、魔女キルケの子孫とされた。

(14)ギリシア神話によれば、テュエステースは兄アトレウスの妻と通じた。するとアトレウスの仕返しにあい、自分の息子たちの肉をそれと知らずに食べてしまい、アトレウスに呪詛の言葉を発したという。

(15)ローマの市街中心部からテヴェレ川東に位置するローマの七丘の一つ。



[出典:田中雅志 編著・訳『魔女の誕生と衰退 ― 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』 三交社 2008年]


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