*トマス・アクィナス『対異教徒大全』(一二五九~六四年頃) Thomas Aquinas, Summa contra gentiles (ca.1259~64)

【解説】

 トマス・アクィナス(一二二五頃~七四)は、十三世紀イタリアの神学者、哲学者、ドミニコ会修道士である。カトリック教会の公式神学となるスコラ学を大成し、キリスト教思想とアリストテレス哲学を統合して総合的哲学大系を構築した、中世キリスト教最大の神学者、哲学者である。

 この偉大なる教会博士は、悪霊〈デーモン〉が存在すると認めた。悪霊がインクブスやスクブスとして人間と性交することも認めた。また、悪霊と通じようとする試みは、それが明白に行われようが、暗黙のうちに行われようが、すべて罪深く、背教にあたいすると論じて、悪魔との契約という観念を示した。悪霊は男を不能にして夫婦の交わりを妨げることができるとも述べている。

 そのため、この中世最大の神学者は、『魔女への鉄槌』をはじめとする悪魔学の論書に揺るぎない権威としてさかんに引用されることになる。現代にいたっても、トマスと近世の魔女信仰とは結びつけて考え続けられた。たとえば、米国の歴史家ジョージ・リンカーン・バー(一八五七~一九三八)は、トマスのことを、魔女のステレオタイプを作りあげた人物の一人と見なした。このバーの説に基づいて、ラッセル・ホープ・ロビンズは、トマスは魔女狩りの嵐の基盤を築いた張本人であり、悪魔との性交、空中移動、変身、荒天術、不妊術という魔女術の核となる五つの観念に影響を与えたと述べている。

 ところが、こうした見解は新たな実証的研究によって覆されることになった★。大著『神学大全』をはじめとする厖大な著作のどこにおいても、トマスは魔女狩りの時代に信じられた魔女のような存在についてはいささかも言及していないことが明らかとなったのである。

 トマスが悪霊と通じているとして非難しているのは、いまだ魔女ではなく、悪霊を呪文で呼びだす儀礼的魔術師であった。こうした悪霊や魔術師に関する見解は、当時のカトリックの正統的見解であって、彼は正統説を語っていたにすぎない。たしかに、トマスは人間と夢魔との性交について述べている。しかし、これはアウグスティヌスの時代から民衆のあいだでごく一般的に信じられていた考えである。また、男を不能にするといった諸々の悪行は、トマスには些末な問題にすぎなかった。魔術についての彼の関心は、予言のような占いの実践にもっぱら向けられている。

 よって、トマスが魔女像の基礎を築いたのではなく、後世の魔女迫害者たちが、彼の厖大な著作のなかから都合のよい見解を意図的に選びだし、その基礎を築いたのである。トマスの影響とは、こうした意味で捉えるべきである。このことは、聖書やアウグスティヌスをはじめとする古代のテキストの場合とまったく同様である。トマスの悪霊や魔術師に関する記述そのものは、近世ではなく十三世紀の歴史的文脈のなかにおいてとらえる必要がある。

 後世の魔女像の形成にたいするトマスのより直接的な影響があるとすれば、それは彼が大成したスコラ学の手法である。『魔女への鉄槌』をはじめとする悪魔学論書の多くは、偉大なる教会博士にならって、スコラ学の弁証法的推論の手法を大いに取り入れている。

 以下は、トマスの主著の一つである『対異教徒大全』のごく一部の翻訳である。同書は全四巻からなる神学に関する体系的著作であり、スペインに派遣されたキリスト教宣教師たちに、イスラム教徒とユダヤ教の学者との論争を手助けするために著された。訳出箇所である第三巻、第二部の一〇五章と一〇六章で、トマスはスコラ学の手法にしたがって、魔術の効果は何に由来するのかを論じるとともに、魔術の実践で効果をもたらす知的実体は美徳に照らして善ではないことを論証している。

★Charles Edward Hopkin, The Share of Thomas Aquinas in the Growth of the Witchcraft Delusion, dissertation, Philadelphia, Univ. of Pennsylvania, 1940. Norman Cohn, Europe's Inner Demons : An Inquiry Inspired by the Great Witch-Hunt, New York, Basic Books, 1975.(邦訳:ノーマン・コーン『魔女狩りの社会史:ヨーロッパの内なる悪霊』、山本通訳、岩波書店、一九八三年)。


【出典】

*Thomas, Aquinas, Saint, The Summa contra gentiles of Saint Thomas Aquinas, literally translated by the English Dominican fathers from the latest Leonine edition, London, [etc], Burns, Oates & Washbourne, 1923-28, third book, pt.2, ch.105-106.


【翻訳】

 

魔術師による行いの効果は何に由来するのか。

 魔術の効果は何に由来するのかを検討するという課題が、いまだ私たちに残っている。ただし、魔術の働きの様態について考察するならば、これは困難を生じさせない問題である。

 魔術師はその術を行うに際して、確たる効果をもたらすために、意味ありげな言葉を用いる。ところで、言葉とは、それが何かを意味するかぎりにおいてだが、話し手または聞き手の知性に由来するものでなければ力を持たない。知性がただ考えるだけで物事を生じさせることができるようなきわめて大きな力を持っている場合、声はこうした話し手の知性に由来して、いわば考えをこれから生じる物事へと伝える働きをする。聞き手が何かをするよう促される場合、言葉の意味は言葉を語りかけられる者の知性に由来して、聞き手の知性をつうじて受けとられる。さて、魔術師が発する意味ありげな言葉は、話し手の知性から効果を得ていると言うことはできない。なぜなら、力は本質に従うので、力の多様性は本質的原理の多様性を示すことになるからである。また、人間の知性はつねに、ただ考えるだけで物事を生じさせることができるというより、物事によって知識がもたらされるという性質をしている。したがって、自分の考えを表現する言葉によって物事を変容させうる能力を持つような人間がいるとするならば、その者は別の種に属する存在であって、人間と呼ぶにふさわしくないであろう。

 さらに言えば、私たちは学ぶことによって、物事を行う力を習得するのではなく、物事を行う方法についての知識を習得する。ところが、ある者は学ぶことによって、魔術を執り行うことができるようになるという。したがって、そうした者は知識だけでなく、魔術の効果をもたらす力も備えているにちがいない。

 もし誰かが次のように主張したとする。つまり、そうした者[魔術師]は星々の影響によって前述の力を備えて生まれたが、そうでない者はこの力を与えられておらず、その結果として、この力なくして生まれた者はどれほど教授されようと、魔術をうまく執り行うことができないのだと。それにたいしてはまず、先述したように、天体が知性に影響を及ぼすことなどないと反論する。したがって、星々の影響をつうじて、考えを声として表すことで何かを生みだす力を受けとることなど、人間の知性にはできないのである。

 そして、意味ありげな言葉を発することで想念が効果をもたらすと主張し、想念の働きは肉体器官をつうじてなされるため、天体は想念に影響を及ぼしうると主張するのならば、この主張は魔術によってもたらされるどの結果にも当てはまらない、と反論する。なぜならば、すでに指摘したように(第一〇四章)、こうした効果は星々の力によってもたらされることなどけっしてできないからである。そのため、誰も星々の力によってこうした効果を生じさせる力を受けとることもできない。したがって、こうした効果は、意味ありげな言葉を発する者の語りに耳を傾ける者たいして、知性によってもたらされるという結論になる。このことは、魔術師が用いる意味ありげな言葉は、あたかも他者に呼びかけているような祈り、祈願、懇願、または命令でさえあるという事実において示されている。

 また、魔術の儀式では、ある種の印刻や人形〈ひとがた〉が用いられている。ところで、人形は行動または感情の動因にはなりえない。さもなければ、物体が活動を起こしたり感情を帯びたりしてしまうだろう。したがって、質料がある種の人形によって自然発生的に影響を受ける性質を帯びるようになることなどありえないのである。魔術師が人形を最終的な処置として用いないのはそのためである。それでも、魔術師はほかの方法がないために、それをただしるしとして用いることもある。しかし、そのしるしはもっぱら別の知的存在にたいして作られる。したがって、魔術の効果は、魔術師によって言葉を語りかけられる別の知的存在に由来するのである。

 ある人形はある天体と呼応しているので、地上の物体はある天体の影響を受けたある人形によって左右される、などと主張する者がいるかもしれない。しかし、これは一見して不合理な主張である。というのも、受動者は可能態で存在することをつうじてでなければ動作主の影響を受けるようにはならない。よって、それだけで受動者に特定の印象を与えるものがあるとすれば、それは受動者を何らかの仕方で可能態において存在させることになる。ところで、人形はいかなる特殊な形相にたいしても、質料を可能態において存在させることはない。というのも、人形は数理的なものなので、あらゆる質料と知覚可能な形相から離れているからである。したがって、物体が天体の影響を受けた人形や印刻によって左右されるなどということはない。

 付言すれば、ある種の人形は影響という点で天体に呼応している。というのも、地上の物体であるそうした人形は天体によってもたらされているからである。ところで、魔術では、天体によって作られた印刻や人形は用いられない。じつは、魔術を行う際には、それらは人間によって作られる。したがって、ある種の人形と天体との呼応性は、本題とは関係がない。

 さらに、すでに指摘したように、質料が人形によってかたちをとることはけっしてない。よって、こうした人形が刻まれている物体は、同じ種類の別の物体の場合と同様に、天体の影響を受けうる。ところで、物がその内部に見られる呼応性のために、複数の同様の傾向を持つものに影響を及ぼしあうことは、そうした働きが自然にではなく意図を持ってもたらされていることを示している。よって、ある効果をもたらすために人形を用いる魔術において、その効果の源となっているのは、自然によって活動する何かではなく、知性によって活動する知的実体であることは明らかである。このことは、魔術師がこうした人形に名づけている印刻という名称そのものによっても証明される。印刻はしるしなのである。以上によって、魔術師はこれらの人形を、ある知的本質に示された、たんなるしるしとして用いているだけであることが分かる。

 しかしながら、魔術の品々において、人形は特殊な姿をしているため、次のように主張する者もいるかもしれない。つまり、天体の影響をつうじて、ある種の力が人形をかたち作ったにちがいなく、その力はじつは人形としてではなく、魔術の品を特徴づけるものとして、像に種類を与えており、よって人形は星々からその力を得ているはずであると。しかし、像に刻まれた銘文をかたち作っている文字に関して、それにその他の印刻に関しては、それらはしるしであるとしか言いようがない。よって、それらは知性にたいしてのみ向けられたものである。このことはまた、生贄や平伏やその他同種の行いによっても証明される。これらは知的本質に示された崇敬のしるしにほかならないのである。

 

魔術の実践で効果をもたらす知的実体は、美徳に照らして善ではないということについて。

  魔術を実効たらしめているこの知的本質がいかなるものであるか、私たちはさらに探究する必要がある。

 まず第一に、それが善ではなく、称賛に値するものでもないことは明らかである。というのも、それは美徳に反する物事を容認する悪しき心の現われだからである。ところで、こうしたことは魔術においてなされている。つまり、魔術は姦通、盗み、殺人のような悪行〈マレフィキア〉を促すために往々にして用いられているのであって、そのためこうした魔術を行う人々は悪行者と呼ばれているのである。したがって、魔術がその拠り所としている知的本質は、美徳に照らして良きものではない。

 また、正直な人よりも悪しき生活に浸った者のほうを友とし助けることは、美徳に照らして善良な心の現われではない。ところで、魔術を行う者は往々にして悪しき生活に浸っている。したがって、魔術が効果をもたらすうえで働いている知的本質は、美徳に照らして善良ではない。

 さらに、人々を人間にとって適切な物事へ、つまり理にかなった物事へと導くことは、善良な心の現れである。ゆえに、人々をそうした物事から遠ざけ、価値のほとんどない物事へと引きつけるのは、悪しき心を示すものである。ところで、魔術によって人々が上達するのは、科学や美徳といった理にかなった物事ではなく、盗品を発見するとか盗人を捕えるといったような、取るに足りない物事である。したがって、魔術で手助けとして用いられている知的実体は、美徳に照らして善良ではない。

 さらにまた、魔術という行いには欺瞞や不合理といったものがある。というのも、魔術は淫らな快楽に無関心な人間を必要とするのに、淫らな交わりを促すために、往々にして魔術が用いられるからである。ところが、善良な心の持ち主の行いには不合理や矛盾はない。したがって、魔術は美徳に照らして善良な性質の知性の働きを用いることはない。

 さらに付言すれば、犯罪を手助けしようとするのは悪しき心である。ところが、犯罪は魔術においてなされている。というのも、魔術を行う人々によって純真な子供が殺害されていると述べられているからだ。したがって、魔術が行なわれるのを手助けする者は、悪しき心の持ち主である。

 また、知性にふさわしい善は真実である。他者を善に導くことは善に属するから、したがって他者を真実に導くことは善良な知性に属する。しかしながら、魔術師の行いにおいては、人々を嘲り欺くような多くのことがなされる。したがって、魔術師が手助けとして用いる知性は、道徳的に善良ではない。

 さらに、善良な知性は真実を好み、それに惹きつけられるが、虚偽には惹きつけられない。しかしながら、魔術師はその祈りにおいて、自分が手助けとして使う者を惹きつけるために、さまざまな虚偽を用いる。というのも、魔術師は不可能なことを言って脅すからである。たとえば、ポルピュリオス(1)が『アネボあて書簡』で述べているように、もし呼びだした存在が手助けしてくれないのならば、その存在を召喚した者は天を粉々にしてやるとか、星々を放逐してやるといった脅し文句を並べるのである。したがって、魔術師が魔術を行う際に働いている知的実体は、知性的に善良であるようには思えない。

 さらにまた、上位者にもかかわらず自分に命令を下す者に下位者として服従したり、相手が下位者なのにあえて上位者として呼びだすといった行いは、悪しき心の持ち主であることを示しているであろう。ところで、魔術師は自分の手助けとして用いる存在を、自分たちよりも上位者であるかのように呼びだしておいて、そうした存在が現われるやいなや、それらを下位者と見なしてそれらに命じる。したがって、魔術師は明らかに善良な心の持ち主ではない。

 以上により、魔術は神々に由来すると主張する異教が誤りであることを、私たちは証明するものである。

 

【訳註】

(1)またはポルフュリオス(Porphyrius, c.234-c.305)。ギリシアの哲学者。アテネの哲学学校で学んだのち、ローマでプロティノスの教えを受ける。『キリスト教徒反駁論』でキリスト教を鋭く批判した。アネボ(Anebo)は、エジプトの大祭司。



[出典:田中雅志 編著・訳『魔女の誕生と衰退 ― 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』 三交社 2008年]



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