ホメロス『オデュッセイア』(紀元前八世紀頃)~キルケ       Homeros, Odysseia (ca. 8 B.C.) ~ Circe

【解説】

 キリスト教の魔女の概念、つまり悪魔と結託してさまざまな悪行をなすという女(または男)は、古代異教の信仰、聖書の記述、土着的な民間信仰など、あまたの要素を取りこみつつ、中世から近世にかけて徐々にかたち作られていった。キリスト教の魔女の基になったそれらさまざまな要素のなかでもっとも古いのが、悪しき魔法を使って害悪をなす女という考えである。古代ギリシア・ローマ文学には、こうした妖術使いの女たちが散見されるが、なかでもホメロスの『オデュッセイア』(希:ΟΔΥΣΣΕΙΑ)に登場するキルケは、最古にして不朽の魔女といえよう。

 『オデュッセイア』は、『イリアス』とならび、伝説的な詩人ホメロスの作とされる古代ギリシアの叙事詩である。イタカ島の王である英雄オデュッセウスがトロイア戦争ののちに各地を放浪する冒険譚、そしてオデュッセウスの息子テレマコスが父を探す探索の旅が歌われている。紀元前八世紀頃に成立し、ホメロス詠いと呼ばれる盲目の吟遊詩人によって音楽とともに吟唱された。文字に記されるようになるのは紀元前六世紀頃からで、やがて現在の二十四巻からなる叙事詩へとまとめられた。

 『オデュッセイア』第十歌によれば、オデュッセウスとその部下たちは、故郷イタカに戻る途中で、魔法使いの女キルケのいるアイアイエ島にたどり着く。キルケは旅人に魔法の薬をまぜたご馳走をふるまっては豚に変えていた。オデュッセウスの何人かの部下たちも彼女の歓待をうけて、同じく悲惨な運命を辿ることになる。ところが、オデュッセウスは事前にヘルメスから警告を受け、毒消しの薬草をもらって食べていたので、キルケの魔法にはかからなかった。そして逆に彼女を剣で威嚇して、危害を加えないと誓わせた。豚に変えられた部下たちも、もとの人間に戻させたのだった。


【出典】

*Homer, The Odyssey, 2 vols., with an English tr. by A.T.Murray, (The Loeb classical library, no.104), London, William Heinemann, [1919], vol.2, pp.359-373.

*翻訳に際しては次の資料を参照した。ホメロス『オデュッセイア』上, 松平千秋訳, (岩波文庫), 岩波書店, 1994年, 256-265頁。

【翻訳】

 [前略]やがて、[オデュッセウスの]部下たちは、森のなかの空き地でキルケの屋敷を見つけた。屋敷は見晴らしのよい場所に、磨かれた石材で建てられていた。屋敷のまわりには、山に棲むオオカミやライオンがたむろしていた。これらはキルケによって恐ろしい薬を盛られ、魔法によって獣へと姿を変えられた者たちである。獣どもは部下たちを襲おうとしないばかりか、長い尾を振りながらじゃれついてきた。宴会から戻るといつもちょっとしたご馳走を持ってきてくれるご主人様のまわりで犬がじゃれつくときのように、爪の鋭いオオカミやライオンたちが一行のまわりでじゃれついているのである。ところが、部下たちはこの化け物めいた獣どもを見て恐怖に駆られた。それから一行は、見事に髪を編んだ女神の屋敷の門口に立つと、屋敷のなかでキルケが大きな不壊の織物を織りながら、美しい声で歌っているのが聞こえてきた。織物は女神の見事で美しく華麗な手仕事のようであった。そのとき、一行の統率者で、私[オデュッセウス]が部下のなかでもっとも目をかけ信頼しているポリテスが言った。

 「おいみんな、誰かが家のなかで大きな織物を織りながら、美しい声で歌っているぞ。歌声が床じゅうに反響している。女神だろうか、それともふつうの女だろうか。さっそく声をかけてみようではないか」。

 そうポリテスが言うと、みなは大きな声をあげて、彼女に呼びかけた。すると、すぐに歌の主[ぬし]は出てきて、華やかな扉を開けてなかへと招き入れた。一同は愚かにも彼女のあとにしたがった。ただし、エウリュロコスだけは、何か罠でもあるのではと疑って屋敷のなかには入らなかった。キルケは一同を招き入れると、イスや腰掛けに座るようすすめ、プラムノス(1)の葡萄酒にチーズと大麦粉と黄色の蜂蜜とを加えた飲物をみなにふるまった。ところが、飲物のなかには、祖国のことをすっかり忘れさせるために、有毒な薬が混入されていた。一同がすすめられるままに飲み乾すや、キルケはただちに彼らを棒で叩きながら、豚小屋へと押しこめた。いまや彼らは頭も声も毛も姿も豚に変わってしまったが、心だけは以前と変わらないままであった。こうして泣きながら豚小屋に閉じこめられている彼らに、キルケはカシの実やどんぐりやミズキの実など、地べたをころげ回る豚が常食としているものを餌として投げ与えた。[中略]

 私はキルケの屋敷に向ったが、道すがらあれやこれやで暗い想いにとらわれた。やがて、見事に髪を編んだ女神の屋敷に着いた。私は門戸に立って呼びかける。すると、女神は私の声を耳にしてすぐに出てきて、華やかな扉を開けてなかへと招き入れた。私はとても不安な気持ちで彼女のあとにしたがった。女神は私を招き入れると、銀がちりばめられたイスに座るようすすめた。それは見事なイスで、豪華な作りであり、足下には足台が置いてある。キルケは私に飲ませようと金の盃で飲物を作り、心に悪巧みを抱いてそれに薬を混ぜた。彼女は飲物を手渡し、私はそれを飲み干したが、[ヘルメス神からもらった秘薬のおかげで]私には魔法が利かなかった。ところが、キルケは棒で私を叩きながら次のように言った。

 「さあ、豚小屋へ行って、仲間といっしょにおなり」。

 彼女がそう言うのを聞くや、私は腰の鋭い剣を抜いて、切り殺さんばかりの勢いでキルケに躍りかかった。すると、彼女は大声をあげて私の足もとになだれ込み、私の膝にすがっておろおろと泣きながら、翼ある言葉を放った。

 「あなたはいったい誰で、どこから来たのですか。あなたのお国はどこで、ご両親はどこにおられるのです。この薬を飲んだのに魔法が利かないなんて、まったく驚きですわ。ひとたびこれを飲んで、薬が歯の垣根を越えたが最後、いままで魔法にかからなかった者など一人もいなかったものですから。けれど、あなたはその胸に魔法のかからぬ心をおもちです。あなたこそ知略に秀でたオデュッセウスにちがいありますまい。オデュッセウスなる者が黒塗りの敏速な船に乗って、トロイアからの帰途にここへ立ち寄るであろうと、かつて私は黄金の杖持つアルゴス殺しの神(2)から聞きました。さあさ、剣など鞘におさめて、いっしょに寝台に入り、愛の契りを交わして、たがいに心を許しあうといたしましょう」。

 このようにキルケが言うと、私は次のように応じた。

 「キルケよ、優しくしてくれなどとよくも言えたものだな、広間で部下たちを豚に変えておいて。そして、今度は私をここに留め、よこしまな企みをいだいて、寝室に行って寝台に入ろうなどと誘い、私を裸にしておいてから精気を奪おうとしているのではないか。女神よ、あなたが今後この私にいかなる悪だくみも抱くつもりはないとかたく誓ってくれないかぎり、私はあなたの閨[ねや]に入る気になどなれない」。

 このように私が言うと、キルケは私が望んだとおりに、いっさい危害は加えませんとただちに誓った。キルケが誓いの言葉を言い終えると、私は彼女の豪奢な寝台へと入った。[中略]

 キルケは、私がぼんやりと座ったまま、食事にも手をつけず、深い悲しみに沈んでいるのに気づくと、私のかたわらへ寄ってきて、翼ある言葉をかけた。

 「オデュッセウスよ、どうして口の利けない者のようにぼんやりと座ったまま、自分の心を苛んで、食べ物にも飲み物にも手をつけずにいるのです。何かまた悪巧みでもあるのだろうかと思っているのですか。あなたはもう心配する必要などありませんよ。けっしてあなたに危害は加えません、とかたく誓ったのですから」。

 このようにキルケが言うと、私は次のように応じた。

 「キルケよ、まっとうな考えをもった者ならば、仲間たちを解放してもらい、その姿を間近に見るまでは、どうして食べ物や飲物を味わう気になどなれようか。もしあなたが心から私に飲食をすすめているのであれば、信頼できるわが部下たちを自由の身にし、わが目でその姿を見られるようにしてもらいたい」。

 このように私が言うと、キルケは棒を手に持って広間から屋敷の外へ出ていった。そして、豚小屋の戸を開くと、九歳の豚の姿にされている部下たちを小屋の外へと追いだした。それから、彼らが彼女のまえに立ちならぶと、キルケは彼らのあいだを通りながら、一人一人に以前とは別の魔法の薬をからだに塗りつける。すると、女神キルケに盛られた有毒な薬のせいで生えていた粗い毛がたちまち四肢から抜けおちて、ふたたび人間の姿に戻った。しかも、以前より若々しくなり、見たところはるかに立派で背も高くなった。彼らは私に気づくと、誰もが私の手を固く握りしめ、歓喜のあまり感涙にむせぶのであった。その泣き声は屋敷一帯に響きわたり、女神さえ哀れみの情を催したほどであった。「以下略」

 

【訳註】

(1)デルメル女神に供える神酒。

(2)ヘルメス神。



[出典:田中雅志 編著・訳『魔女の誕生と衰退 ― 原典資料で読む西洋悪魔学の歴史』 三交社 2008年]

 

 

What's New!