魔女のイコノグラフィー ~ ヨーロッパにおける魔女像の800年                                    

図1「異端の女神」16世紀末の反宗教改革的パンフレットより
図1「異端の女神」16世紀末の反宗教改革的パンフレットより

 


 呪術や占術に長けた女性という広義における魔女(ウィツチ)は、北アジア地域のシャーマンをはじめ、世界各地でその存在を認めることができる。ヨーロッパにおいても、このような呪術使いの女性としての魔女は遥かな昔から存在しており、その起源はゲルマン民族やケルト民族の信仰・神話、さらには古代地中海世界に流布したディアナ神やキュベレ神のような太母神(マグナ・マーター)にたいする信仰にまで遡り見い出すことができよう。

 しかし中世後期、たんなる呪術使いとしての魔女から、悪魔と結託したとしてキリスト教会から異端の烙印を押された「魔女」への転換が生じる。すなわちこの時期、キリスト教の存在抜きにしては考えることのできない、ヨーロッパ社会特有の「魔女」の観念が形成されたのだ。そしてこの観念は、十五世紀から十七世紀にかけて、妄想に満ちた悪魔学の神話によって増幅され、狂気の魔女狩りというかたちで人間の精神の闇を現実世界に露わにすることとなった。

 本稿においては、十二世紀から十九世紀にヨーロッパで描かれた「魔女」の図像の変遷を辿り、その図像から読みとれる、人々の心の内に思い描かれた「魔女」像を俯瞰することにしたい。

 

 

揺籃期

 たとえば、ほうきの柄や動物の背にまたがって空を飛び、サバトに赴くといった、異端と結びついた魔女に関する定型観念(ステレオタイプ)は、ヴァルド派異端にたいする裁判記録に見られるように、十五世紀前半にはすでにじゅうぶんに発展していた。ところが、この定型概念を視覚的に表現した魔女の図像のほうとなると、十五世紀以前にはあまり多く見られない。

 そのなかで、現在もっとも古い魔女の図像の一つとして知られているのが、十二世紀に描かれた「バークレーの魔女」(図2)である。イングランドの民話は次のように伝えている。

 十一世紀、イングランドのバークレーの町に、ある金持ちの老女が暮らしていた。老女が金持ちなのは、自分の魂を悪魔に売り渡していたからである。やがて老女が自分の死期を悟るときが来た。そして、悪魔との契約のことをついに息子たちに告白した。

 息子たちは母親が悪魔に魂を奪われるのは防ぐため、彼女を牡鹿の皮にくるみ、石棺のなかに身を横たえさせた。さらに石棺は、魔力を持つ三本の鉄鎖で封印したうえで、教会に安置した。しかし、結局この封印は破られ、老女は黒馬に乗った悪魔に地獄の闇のなかへと連れ去られてしまう。

 十五世紀半ばには、ほうきの柄にまたがる魔女のもっとも古い図像が描かれた(図3)。広く知られているように、これはもっとも典型的な魔女の図像表現法(イコノグラフィー)である。

 フロイトが指摘したように、ほうきの柄をペニスと解釈すれば、空中浮遊する彼女の姿は性的オルガスムのただなかにある浮遊感の表現と見ることもできる。あるいは、サバトでの悪魔とのセックスや性的オルギアも暗示しているかもしれない。つまり、この種の図像には、キリスト教の禁欲的な教義によって屈折させられた、女性の性衝動にたいする夢想的表現を読み取ることができそうである。

 

図2 「バークレーの魔女」12世紀の年代記より。
図2 「バークレーの魔女」12世紀の年代記より。
図3 箒に乗った魔女。マルタン・ル・フラン著『女性の擁護者』(1451)より。
図3 箒に乗った魔女。マルタン・ル・フラン著『女性の擁護者』(1451)より。

 

 

挿絵に描かれた魔女
 魔女の概念はすでに中世に発展していたが、その図像が広く一般に流布するのはルネサンス期に入ってからである。この流布に大いに貢献したのが、じつはグーテンベルクによる活版印刷術の発明である。グーテンベルクの偉業は、皮肉なことに、十五世紀末以降、魔女迫害の書物やパンフレットの類を続々と世に広めることになる。そしてこれら印刷物には、悪魔学者や法律家の魔女妄想を視覚化した挿絵が好んで付されたのである。

 こうした挿絵が一般民衆の「教化」に果たした役割の大なることは、容易に想像することができる。はたして、十五世紀から十七世紀にかけて、魔女狩りという熱病がヨーロッパ各地を駆けめぐった。

 挿絵に見られる魔女とその悪行(マレフィカルム)の描写は、インスティトリスとシュプレンガーの『魔女の鉄槌』(一四八六)をはじめとする悪魔学文献の記述にきわめて忠実に従っていて、類型化しているのが特徴である。描写に画家の創意が加わることは稀である。したがって、魔女のイコノグラフィーは、悪魔学文献によって提供されたと言うことができる。

 たとえば、トリールの副司教で、みずからも何百人もの魔女を裁いたペーター・ビンスフェルトの著作『魔術師ならびに魔女の自白に関する論考』の挿絵(図7)を見てみよう。

 ここには、さまざまな悪行を働く魔女が描かれている。彼女たちはみな身なりが良い。このことは、農民ばかりか都市の上流階級の人間も悪魔の追随者となる可能性があることを示唆している。

 まず画面左手には、魔女が跪いて、カトリック司祭の法衣を身に纏った悪魔といちゃついている。右手にも、別の魔女が立派な衣服に身を包んだ悪魔といちゃついている。彼女らのお相手が悪魔であることは、頭に生えた山羊の角や、鉤爪のある足がはっきりと物語っている。

 このように、悪魔はいかに人間の姿を装おうとも、からだのどこかにかならず獣の部分を留めた姿で描かれるのがお定まりである。それにたいし、魔女はときとして動物の姿に変態することもあるが、たいていはまったくの人間の姿でもって描かれる。

 中央にいる魔女は、煮えた釜のなかに幼児を投げ入れている。こうして幼児の油を取り出し、それでできた軟膏を鍬の柄に塗って、サバトへと出かける算段である。背景には、煙突から抜け出して、空中を飛行してサバトへと赴く魔女の姿が見える。妖術を使って農作物に雹を降らせている魔女もいる。

  このように、挿絵に描かれた魔女は、悪魔学文献の記述に忠実に従っていることが分かる。これは挿絵だけに限らず、アルブレヒト・デューラー(一四七一ー一五二八)やハンス・バルドゥング・グリーン(一四八四?ー一五四五)といったルネサンス期の高名な画家たちの絵画や版画についてもおおむね言えることである。 

 

図4 妖術を用いて乳を搾り出す魔女。左の魔女の足許に描かれた五芒星に注目。ハンス・ヴィンドラー著『有徳の書』(アウグスブルク,1486年)より。
図4 妖術を用いて乳を搾り出す魔女。左の魔女の足許に描かれた五芒星に注目。ハンス・ヴィンドラー著『有徳の書』(アウグスブルク,1486年)より。
図5 嵐を呼ぶ魔女。ウルリヒ・モリトール著『女吸血鬼(ラミア)と魔女について』(ケルン,1489年)のタイトル・ページ。木版。
図5 嵐を呼ぶ魔女。ウルリヒ・モリトール著『女吸血鬼(ラミア)と魔女について』(ケルン,1489年)のタイトル・ページ。木版。

図6 斧の柄から乳を搾り出す魔女。遠景では雹が降っているが、これも魔女の妖術の仕業である。ガイラー・フォン・カイザースペルク著『蟻』(シュトラスブール,1517年)より。木版。
図6 斧の柄から乳を搾り出す魔女。遠景では雹が降っているが、これも魔女の妖術の仕業である。ガイラー・フォン・カイザースペルク著『蟻』(シュトラスブール,1517年)より。木版。
図7 ペーター・ビンスフェルト著『魔術師ならびに魔女の自白に関する論考』(ミュンヘン,1591年)のタイトル・ページ。木版。
図7 ペーター・ビンスフェルト著『魔術師ならびに魔女の自白に関する論考』(ミュンヘン,1591年)のタイトル・ページ。木版。
図8 二人の男を誘惑する魔女。魔女は頭上に漂う悪魔と結託することで、男を呪縛する力を得ている。右側の男は、その縛られたかのような腕の形からして、既に魔女の術中に陥っている。キケロ著『義務について』(アウグスブルク、1531年)より。木版。
図8 二人の男を誘惑する魔女。魔女は頭上に漂う悪魔と結託することで、男を呪縛する力を得ている。右側の男は、その縛られたかのような腕の形からして、既に魔女の術中に陥っている。キケロ著『義務について』(アウグスブルク、1531年)より。木版。

 

女性としての魔女
 十五世から十七世紀にかけて、多くの画家たちが魔女を描いた。彼らの描いた魔女は、その多くが女性の否定的な側面を強調するものだった。魔女は年老いて醜く、悪行を働き、愚かで、淫乱で、男の聖域を汚し、容易に悪魔の誘惑に乗る・・・・・・。

 こういった魔女像は、やはり悪魔学が女性について述べた言説に強い影響を受けている。『魔女の鉄鎚』には、次のように記されている。「女はその迷信、欲情、欺瞞、軽薄さにおいてはるかに男を凌いでおり、体力の無さを悪魔と結託することで補い、復讐を遂げる。妖術に頼り、執念深い淫らな欲情を満足させようとするのだ」。

 悪魔学におけるこのような女性観のもとを辿れば、キリスト教のうちに見いだされる女性嫌悪(ミソジニー)に行き当たるであろう。つまり、悪魔学が提供するイコノグラフィーに基づき描かれたこの時代の魔女像は、女性嫌悪、女性恐怖といったキリスト教の否定的女性観を色濃く反映しているのである。 まずは、デューラーと同時期に活動したドイツの画家、ハンス・ブルクマイアー(一四七三ー一五三一)の《悪魔をともなった老婆》(図9)を見てみよう。

 この木版画は、悪魔学から提供された「魔女のイコノグラフィー」に忠実に従い描かれている。老婆の姿をした魔女は肩に悪魔を戴いている。片手には、悪魔の助けで手に入れた財布を握りしめている。彼女は悪魔と結託したのだ。財布は魔女の魔力を暗示し、彼女はこの魔力を使って男を性的不能に陥れるであろう。

 死に取り憑かれたかのようなスイスの画家、ニクラウス・ドイッチュ(一四八四頃ー一五三〇)は、《年老いた魔女》(図10)で、魔女を見るもおぞましいオールヌードの老婆として描いている。老婆はやせ細り、老醜を晒している。かつて豊かであった乳房はしおれて垂れ下がり、みずみずしかった皮膚はたるんで皺だらけとなり、胸もとにはあばら骨が浮き出ている。房状になったざんばら髪は、メデューサの頭髪を思い起こさせる。

 それでも、すらりとた四肢、それに何やら艶めかしい姿態は、若き日の美しい姿をわずかばかりに彷彿とさせる。魔女は意地悪くにやりと笑って、見る者に語りかける。「あたしを見てごらん。あんたたちだって、じきにこうなるんだ」。

  ドイッチュが描く魔女は女性美の表現の対極に位置し、美のはかなさ、老い、そして死の寓意であったようだ。

 しかしながら、以上のような否定的女性観に基づく魔女像ばかりでなく、それとは対照的に、美、官能、豊饒、神秘といった女性性のプラスの側面を表現した魔女像もまた、この時代に描かれていることを忘れてはならない。

 デューラーの《四人の魔女》(図12)は、図像学的に見て、美の女神たちであることが分かる。

 同じく、デューラーの弟子ハンス・ゼーバルト・ベーハム(一五〇〇ー五〇)の魔女たちも、美の女神である(図13)。このベーハムの三美神は、娘、成熟した女、老女という三様の姿をしている。娘は隣にいる骸骨=死に見つめられ、髪を掴まれているが、これは骸骨の手が頭上に載せられている老女に勝るとも劣らず、娘が死に近い存在であることを暗示している。中央の成熟した女は、豊饒や多産を象徴するその豊満な肉体、右足で頭蓋骨を踏みしだく動作で、死とは対極の位相にあることが知れる。

 この三様の美神は骸骨とともに円環を形作り、生成と消滅の永遠なる循環のうちにあり、大地の永遠の生命力を神格化した古代異教の太母神を思い起こさせる。

 ハンス・バルドゥング・グリーンが描く魔女は、同時代の画家たちが描くいずれの魔女にもまして優美で官能的である。 《若い魔女と竜》(図15)では、魔女はなんとエロティックなことか。全裸の彼女は、悪魔の化身である竜の吐き出す邪淫の炎で、陰部を貫かれている。

 同じように、《嵐を呼ぶ魔女》(図16)でも、二人の魔女はじつにエロティックである。ふくよかでみずみずしい裸身を晒す彼女たちは、山の頂で悪魔の力を借りて、天に嵐を呼び寄せているところである。よく見ると、山羊の背に座った魔女が左手に持ち上げるフラスコ瓶のなかには、悪魔が封じ込められている。

 《嵐を呼ぶ魔女》はやはり伝統的な「魔女のイコノグラフィー」に従っているものの、そこにはバルドゥング・グリーンの創意が明らかに加えられている。魔女はけっして悪魔の誘惑に愚かにものって悪行を働く罪深い存在ではない。聡明で、自意識に目覚め、誇りと自信に満ち溢れる、といったふうである。ここでは、画家は魔女を、世のおとがめなしに理想のヌードを描くためのいわば口実として使っているようにも思える。

 

図9 ハンス・ブルクマイアー画《悪魔をともなった老婆》1512年。木版。
図9 ハンス・ブルクマイアー画《悪魔をともなった老婆》1512年。木版。
図10 ニクラウス・マヌエル・ドイッチュ画《年老いた魔女》16世紀。素描。
図10 ニクラウス・マヌエル・ドイッチュ画《年老いた魔女》16世紀。素描。

図11 アルブレヒト・デューラー画《馬上の魔女》。画中の老婆は、右手に抱えた箒、跨っている雄山羊、風になびく髪で、魔女であると知れる。1500年頃。木版。
図11 アルブレヒト・デューラー画《馬上の魔女》。画中の老婆は、右手に抱えた箒、跨っている雄山羊、風になびく髪で、魔女であると知れる。1500年頃。木版。
図12 アルブレヒト・デューラー画《四人の魔女》1497年。木版。
図12 アルブレヒト・デューラー画《四人の魔女》1497年。木版。

図13 ハンス・ゼーバルト・ベーハム《三人の魔女と死》16世紀。木版。
図13 ハンス・ゼーバルト・ベーハム《三人の魔女と死》16世紀。木版。
図14 愛の魔術。うら若き女性が床のうえに配した花で作った魔法円の中に立ち、小箱の中の心臓と百合の花に恋の秘薬を振りかけて、愛の魔術を行っている。だが、男を魅了する最も強い愛の魔術は、この女性の官能的な裸体美であろう。ヤン・ファン・エイクの技法に倣ったフランドル派の画家による。15世紀。油彩。
図14 愛の魔術。うら若き女性が床のうえに配した花で作った魔法円の中に立ち、小箱の中の心臓と百合の花に恋の秘薬を振りかけて、愛の魔術を行っている。だが、男を魅了する最も強い愛の魔術は、この女性の官能的な裸体美であろう。ヤン・ファン・エイクの技法に倣ったフランドル派の画家による。15世紀。油彩。

図15 ハンス・バルドゥング・グリーン画《若い魔女と竜》1515年。素描。
図15 ハンス・バルドゥング・グリーン画《若い魔女と竜》1515年。素描。
図16  ハンス・バルドゥング・グリーン画《嵐を呼ぶ魔女》1523年。油彩。
図16 ハンス・バルドゥング・グリーン画《嵐を呼ぶ魔女》1523年。油彩。

 

拷問と火刑
 魔女狩りの時代には、「呪術を使う女は生かしておいてはならない」(『出エジプト記』二二・一七)、「あなたのあいだに呪術師など存在してはならない」(『申命記』十八・一〇)といった聖書の言葉をもとに、魔女の嫌疑をかけられた無実の者にたいして、残酷な拷問や処刑が平然と行われた。

 拷問はローマ法の影響を受けた審問手続きであるが、当時は野蛮であるどころか、被疑者の自白を引き出すうえで、しごくもっともな手段と見なされていた。拷問の方法は、時代や地域によってさまざまであった。一般的には、刑吏はまず被疑者にさまざまな拷問道具を見せつけ、その効能を説いて聞かせる。たいていはそれで自白が得られたが、それでも自白しないときは、二つの鉄片のあいだに親指を挟んで締め付ける「親指締め」、とがった鉄の先で爪を剥がす「爪剥ぎ」、四肢を固定して無理やり水を飲ませる「水責め」、足の裏やわきの下などに油を塗って火で炙る「火炙り」などなどが用いられた。

 無実の被疑者たちは、これらの拷問によって魔女であると偽りの自白をするや、ただちに火刑に処された。魔女や異端者の処刑方法としては、もっぱら火刑が用いられた。その理由は、火が持つ恐るべき破壊力にあったと思われる。火刑は、有害危険な魔女やその魔力を徹底的に粉砕し、魔女に取り憑いた悪魔や悪霊を退治するためのもっとも完璧な処刑方法と見なされていたのである。

 火刑は、可能な限り肉体が灰燼に帰するまで続けられるべしとされた。そして、遺灰は川に流されるか、風に飛ばされるかした。処刑にかかわる当事者は、こうして忌まわしい魔女の存在の痕跡をできる限りこの世から消し去ることで、無意識では無実の予感のする魔女にたいする自責の念をも消し去ろうとしたにちがいない。つまり、火刑は無実の魔女にたいするうしろめたい記憶の抑圧や否定にも、きわめて適っていたといえる。

 十五世紀から十七世紀にかけて、拷問や火刑に処される魔女の図像が、年代記やパンフレットなどに数多く描かれた。こうした図像の多くは実際に起こった出来事に基づいていた。そして、それらは公開処刑と同じように、一般民衆に向けての見せしめ的な意味合いを帯びていた。それらはなんびとも魔女の害悪に染まるべからずという忠告であり、ひとたびその害悪に染まったならば、このような悲惨な目に遭うであろうという訓戒であったのである。

 そうした魔女の拷問図や処刑図は、一つには当時の複製版画の技術的な制約もあって、じつにむごたらしい場面が淡々と描き上げられているのが特徴である。刑吏は無表情で自分に課せられた忌むべき職務を遂行している。犠牲者は苦悶のあまり断末魔の叫びをあげ、あるいは自分の悲惨な定めを甘受した、あきらめに満ちた表情で描かれている。

 

図17 様々な拷問具、処刑具。『ブランデンブルクの刑法典』(ニュルンベルク,1516年)のタイトル・ページ。
図17 様々な拷問具、処刑具。『ブランデンブルクの刑法典』(ニュルンベルク,1516年)のタイトル・ページ。
図18 画面左は、晒し台に両手両脚を固定される被疑者。晒し台は公共の場に設置され、公衆の面前に晒された者は、殴れたり糞尿を浴びせかけられた。画面右は、鉄製の楔で指を挟む拷問の場面。16世紀、木版。
図18 画面左は、晒し台に両手両脚を固定される被疑者。晒し台は公共の場に設置され、公衆の面前に晒された者は、殴れたり糞尿を浴びせかけられた。画面右は、鉄製の楔で指を挟む拷問の場面。16世紀、木版。

図19 1555年イギリスで、魔女として生きたまま火刑に処された三人の女性。炎で妊婦の腹が割けた様が描かれている。魔女の火炙りの際には、実際に出産が起こることもあった。だが胎児はこの図のように裂けた腹からではなく、産道から出てきたにすぎない。生まれた子供は悪魔の所産だとして、再び火中へと投じられる運命を辿った。同時代のイギリスの木版画。
図19 1555年イギリスで、魔女として生きたまま火刑に処された三人の女性。炎で妊婦の腹が割けた様が描かれている。魔女の火炙りの際には、実際に出産が起こることもあった。だが胎児はこの図のように裂けた腹からではなく、産道から出てきたにすぎない。生まれた子供は悪魔の所産だとして、再び火中へと投じられる運命を辿った。同時代のイギリスの木版画。
図20 この図は、ユーリヒ侯爵領で300余人の女たちが悪魔と結託して狼の姿に変身し、人間と家畜を襲って殺した挙句、85人が魔女として火刑に処されたと伝えられた事件を描いている。1591年アウグスブルクで発刊されたパンフレットより。木版。
図20 この図は、ユーリヒ侯爵領で300余人の女たちが悪魔と結託して狼の姿に変身し、人間と家畜を襲って殺した挙句、85人が魔女として火刑に処されたと伝えられた事件を描いている。1591年アウグスブルクで発刊されたパンフレットより。木版。

 

サバト
 サバトとは、悪魔を首領に戴いた大勢の魔女たちの猥雑な集会のことである。しかし、このような集会は、魔女狩りの時代に、キリスト教徒の社会的エリートたちが抱いた空想の産物に過ぎなかった。つまりサバトは、キリスト教徒である社会の支配者層が、農村社会に見られた異教的な民俗儀礼を妄想たっぷりに解釈して流布させた、まったくの絵空事だったのである。

 サバトはまた、この言葉がユダヤ教の安息日を意味するヘブライ語 Shabbath に由来することから、明らかにユダヤ人迫害とも関連がある。

 異端審問で最初にサバトへの言及が見られるのは、一三三五年のことであった。そして十五世紀半ば以降、悪魔学の充実とともにサバト妄想は急速に広まり、サバト参加の有無が魔女審問の際のもっとも重要な要件とされるにいたる。

  それでは、このサバト妄想とははたしていかなるものであったのであろうか。それを知るには、フランスの異端審問官ピエール・ド・ランクルの著作『堕天使と悪魔の無節操についての描写』(一六一二)に掲載された銅版画(図23)を見るのが手っ取り早い。

 画面右上には、五本の角を生やし、頭上に鬼火をともした牡山羊姿の魔王(サタン)が、黄金の説教壇に鎮座している(A)。

 その両側を、野宴の女王と王女が守護する(B)。

 この魔王にたいし、魔女と、蝶の羽根を生やした悪魔とが、跪いて幼児を差しだしている(C)。

 画面右下では宴たけなわで、社会のいろいろな階層の婦人が悪魔と同席し、調理された未洗礼の幼児を食している(D)。

 そのすぐ右上には、この野宴への参加を認められない貧しい魔女たちがいる(E)。

  またその上では、一本の若木を囲んで、魔女が悪魔と輪舞している(F )。

 画面左上では、楽師たちが奏でる管弦楽の調べに合わせて、六人の裸の魔女が、背中を内側にしたきわめて背徳的な輪舞をしている(G,H)。

 その下には、この盛大なサバトの主催者である富裕な領主や貴婦人の一団がいる(L)。

 さらにその下では、煮えた大釜に投じられる運命のヒキガエルを、子供たちが眺めている(M)。

 いちばん手前では、三人の魔女がヘビやヒキガエルを大釜に投じ、魔女のさまざまな悪行を可能とする秘薬を作っている(I)。大釜からは、吐き気を催させる臭気を放つ湯気とともに、ほうきの柄にまたがった魔女、悪魔、肉片や骨片、そして昆虫などが吐き出されている。

 その右側では、山羊の姿の悪魔に乗った魔女が、誘拐した二人の幼児を魔王への手みやげにと、いまこの野宴に到着したところである(K)。

 中世末からルネサンス期には、舞踏や祝祭はしばしば禁止されたり、厳格な制約を課されてようやく許可されていた。この史実を念頭に置けば、酒池肉林の野宴図には、魔女弾劾の意図だけでなく、抑圧され禁じられた舞踏などのオルギアにたいする無意識の願望も反映されているように思える。

 つまり、描かれたサバトの情景がより乱脈と背徳の度を深めるほどに、その禁断の図には、現実の抑圧から解き放たれたいという、やみがたいディオニューソス的衝動をいっそうはっきりと見て取ることができそうである。

 

図21 ジャック・ド・ヘイン2世画《魔女のサバト》1608年。素描に彩色。右手の魔女の一人が盆に幼児の頭部をのせている。サバトの饗宴では、人間それも特に幼児の肉が好んで食べられると信じられた。
図21 ジャック・ド・ヘイン2世画《魔女のサバト》1608年。素描に彩色。右手の魔女の一人が盆に幼児の頭部をのせている。サバトの饗宴では、人間それも特に幼児の肉が好んで食べられると信じられた。
図22 ブロッケン山上のサバト。1669年。木版。サバトは人里離れた山中、洞窟、深い森で催されると考えられた。なかでも、ドイツのハルツ山脈のブロッケン山はとりわけ有名な場所である。図の中央では、一人の魔女が山羊の姿をした悪魔の肛門に接吻し、忠誠を誓っている。
図22 ブロッケン山上のサバト。1669年。木版。サバトは人里離れた山中、洞窟、深い森で催されると考えられた。なかでも、ドイツのハルツ山脈のブロッケン山はとりわけ有名な場所である。図の中央では、一人の魔女が山羊の姿をした悪魔の肛門に接吻し、忠誠を誓っている。

図23 ピエール・ド・ランクル著『堕天使と悪魔の無節操についての描写』(パリ,1613年)より。銅版。
図23 ピエール・ド・ランクル著『堕天使と悪魔の無節操についての描写』(パリ,1613年)より。銅版。

 

啓蒙の時代
 十八世紀、啓蒙思想の広まりとともに、魔女の存在はしだいに迷信や無知の生んだ妄想の産物と見なされるようになった。異端審問官や悪魔学者が唱える見解は、もはや真剣に受け取られることはなかった。

 たとえば異端審問官たちは、魔女は悪魔の霊的性質を分かち持ち、空中を飛ぶことができることから、見かけよりも軽い、などと主張していた。この主張に基づき、水による神明裁判が行われていたが、この裁判は被疑者の両手両足を縛り、石のおもりをつけて水中に投げ入れ、沈まなければ有罪とする過酷なものであった。

 オランダのオーデヴァーターの啓蒙的な市会議員たちは、異端審問官らが主張する神明裁判を退け、実際に正確な計りを用いて女性の体重を計測した(図24)。

 啓蒙の時代、合理的なものの考え方と、魔女妄想との奇妙な混淆が見られた。一七五一年ドイツのニュルンベルクで作製された、ブロッケン山を描いた地形図が、その一例である(図25)。よく知られているように、ドイツのハルツ山脈にあるブロッケン山は、ヴァルプルギスの夜(四月三十日)に、魔女たちの盛大な野宴が開かれると信じられたサバトのメッカである。

 さて、精密に描かれた地形図を眺めると、驚くなかれ、ほうきの柄に乗ってブロッケン山へと飛来する魔女たちが描き込まれているのが見て取れる。輪舞の行われる山頂は平地になっていて、そこにはすでに何人かの魔女の人影も認められる。

 十八世紀になると、魔女は現実的な社会生活の表舞台から姿を消して行く。そのかわりに、文学や芸術といった想像世界の領域で息を吹き返すことになった。魔女は作家や画家のロマン主義的な想像力を喚起する格好の題材となったのである。

 たとえば、ゲーテは『ファウスト』で、魔女を女魔法使いとして登場させている。また、シェークスピアの『マクベス』に三人の女預言者として登場する魔女は、当時しばしば挿絵などに描かれた。いっぽう、スペイン近代絵画の巨匠ゴヤは、古典的な魔女の観念を独特の幻想的な画風で再現して見せた。

 こうして、この時代の文学者、芸術家は、今日私たちが脳裡に浮かべる魔女の定型イメージを、最終的にヨーロッパ中にくまなく広めたのである。

図24 フリッツ・ベルガー画《オーデヴァーターでの魔女の計測》 銅版。
図24 フリッツ・ベルガー画《オーデヴァーターでの魔女の計測》 銅版。
図25 L.S.ベシュテホルン画。ブロッケン山の地形図。ニュルンベルク,1751年
図25 L.S.ベシュテホルン画。ブロッケン山の地形図。ニュルンベルク,1751年
『マクベス』の三人の魔女。ヨハン・ハインリヒ・フュースリ画。1782-83年。
『マクベス』の三人の魔女。ヨハン・ハインリヒ・フュースリ画。1782-83年。
図27 ゴヤ・イ・ルシエンテス画《立派な先生!》。《ロス・カプリ―チョス》(1799年)より。銅版。
図27 ゴヤ・イ・ルシエンテス画《立派な先生!》。《ロス・カプリ―チョス》(1799年)より。銅版。

 

19世紀
 魔女狩りがすでに遠い過去の記憶と化した十九世紀には、まったく新しい魔女像の表現が試みられた。ロマン主義思潮の影響を強く受けたこの時代、魔女はいままでになく情感豊かに、そして肉感的に描かれる。生まれ変わった彼女の新しい姿は、フランスの歴史家ジュール・ミシュレが『魔女』(一八六二)で展開してみせた見解に、典型的に認められる。つまり魔女とは、旧弊な社会の抑圧にあえぎながらも反逆する悲劇のヒロインなのである。

 ときに悲劇のヒロインは、残忍でサディスティックな刑吏にいたぶられ、なす術もなく裸体を晒すばかりである。当然予想されるように、この種のSMチックな情景はエロティック美術に格好の構図を提供することにもなった。

 これら十九世紀の新しい魔女像に共通して言えることは、それらがいずれも人間の情感に強く訴えかける表現をとっている、という点である。すでに過ぎ去った忌まわしい過去をリアルに再現するために、いまとなってはとうてい理解できない狂気に満ちた出来事をどうにか感得させるために、画家たちは人間の理性を超えた感情移入の能力に強く頼ることになったのであろう。

 

図28 鉄鋲付き拷問イスに座らされての尋問。19世紀。銅版。
図28 鉄鋲付き拷問イスに座らされての尋問。19世紀。銅版。
図29 フェルディナント・ピロティ画。尋問の光景。悪魔のしるしを探す刑吏に無理やり服を脱がされている。ヨハネス・シェーア著《ゲルマニア》(シュトゥットガルト,1878年)より。銅版。
図29 フェルディナント・ピロティ画。尋問の光景。悪魔のしるしを探す刑吏に無理やり服を脱がされている。ヨハネス・シェーア著《ゲルマニア》(シュトゥットガルト,1878年)より。銅版。

図30 アントワーヌ・ヴィールツ画《若い魔女》19世紀。油彩。
図30 アントワーヌ・ヴィールツ画《若い魔女》19世紀。油彩。

 

 

*出典:以下の雑誌記事を一部加筆修正のうえ掲載。

「魔女のイコノグラフィー:ヨ-ロッパにおける魔女像の800年」 (魔女<特集>) 田中 雅志 [図版構成](『ユリイカ』26(2), pp.103-119, 1994-02)

 


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